Scene.3-3




「智栄!? 帰ったのか?」

 私の気持ちがやっと静まってきた時、私に問いかける声と共に扉が開いた。

 その大きな音に驚いた私と川崎センセは、ハッと其方へと向く。

「――智栄、と、キミは一体……?」

 バスタオルを一枚、腰に巻いただけの父親が、訝しそうに私達を見遣る。

「……あっ、えっと――」

 灯りも点けず、まるでセンセと抱き合ったみたいな体勢だったことに気がつく。

 慌てて彼から離れ、涙を拭った。

「あの、すみません。勝手にお邪魔しまして、私、智栄さんの高校の――」

「もしかして、智栄の彼氏か?」

「え?」

 裸同然の格好とはいえ、教え子の父親。

 頭を下げ、丁寧に自己紹介しようとしたセンセの言葉を遮るように、その父親が訊ねる。

 突拍子のない発言に、一瞬目が点になった。おそらくセンセもそうだったろう。

「いやあ、そうだったのかー、智栄。今日はやたらと帰りが遅いと思ったら、お前もデートだったんだな?」

「え、違うよ、お父さん。そういうワケじゃなくて、この人は――」

「今、吉川さんが来てるんだけど、彼女がなー、お前の彼氏を見たいって言ってたんだー。おーい、愛美ー! 愛美ー!」

 私が誤解を解こうとしているのに、センセを彼氏だと疑わない父親は、私の部屋から声を張り上げて恋人の名を呼んだ。

「いや、お父さん。私は智栄さんのですね、高校の古文の――」

「な〜に? セイちゃん。智栄さん、帰ってきたの? あら〜? この方は?」

 乱れた髪にベビードールみたいなピンク色のシースルー素材をふんだんに使った、

 キャミソールタイプのミニワンピースだけを身に着けてやってきた吉川さん。

 2人の格好は、いかにもたった今コトを済ませました、という様子を隠すでもなく、それがまた私とセンセを驚かせた。

 本当に、何ていう人達だ。

「智栄がな、彼氏を連れてきたんだよ」

「あら、智栄さんの彼氏さんですか? すごく素敵な方じゃないですか〜! 私にも紹介して下さいよぉ〜。お名前は〜?」

「ですから、あの……」

「歳はいくつなんだ? ん?」

 センセに喋る隙を与えないほどの、二人の質問攻撃に、川崎センセもどう対応していいかよく判らない様子だった。

 誤解が深まっていくのをどうにかして止めなければ。

 そんな使命感に駆られて、私は意を決して声を上げた。

「ちがうの、この人は――この人は、私の高校の先生なの!」

 私がそう言うと、今度は父親と吉川さんがきょとんとした顔をしていた。

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「なるほど、そういうことでしたか……智栄の学校の先生だったんですねー。これはどうも失礼しました」

「ごめんなさいね〜、早とちりして〜」

「いえ……あの、ご理解いただけたのであれば良かったです」

 普段、殆ど使われることのない水上家のリビングが、珍しく賑やかだった。

 父親、吉川さん、川崎センセ、そして私の四人が、それぞれ並んでソファに腰掛けている。

 半円状の革張りのソファ。一つには父親と吉川さんが、もう一つには私とセンセが、という具合に。

 気を利かせたらしい吉川さんが、コーヒーを淹れてくれて、今、ローテーブルに配り終えたところだった。

 ……ウチの勝手まで知ってるとは。結構前から、この家に上がりこんでいるということなのか。

 私は、キャミワンピの上にパーカーを羽織った吉川さんをジト目で見ながらそう推測した。部屋着まで置いてあるくらいだもんね。

「改めまして、川崎千紘と申します。智栄さんの古文の授業を受け持っています」

 川崎センセは、コーヒーを置いた吉川さんに軽く頭を下げながら、フルネームを名乗った。

「川崎先生ですねー。いやー、智栄が家にオトコを連れて来たのなんて初めてで、ついつい舞い上がってしまって……」

 流石の父親もバスタオルだとマズいと判断したらしく、部屋着と思われるスウェット姿に変わっていた。

「先生、いいカラダしてるんですね! 何かスポーツでもやってらっしゃるんですか〜?」

 吉川さんは、まるで合コンみたいなノリで気安くセンセに話しかける。

 まぁ、彼女とセンセは年齢的にもさほど違わないのだけど……何だか、すごく妙な図だ。

「ええ、休みの日はマリンスポーツをやりに行ったりしてます」

「わぁ、だから焼けてるんですね〜。体も鍛えてる感じがして、ステキです」

「……ど、どうもありがとうございます」

 彼女はどうやら川崎センセを気に入ったようだった。普段よりも幾分饒舌な気がするからだ。

 対するセンセは、ただでさえ短い吉川さんのワンピが、腰掛けたことでナマ脚を惜しみなく晒すことになってしまったため

 目の遣りどころに困っているようだった。笑顔で受け答えしているものの、彼女を見るときだけは俯きがちなのだ。

 あぁ……これってどういう状況なんだろう?

 深夜零時過ぎ、自宅のリビングで、父親と吉川さんと、更には――川崎センセとコーヒーを飲んでいるなんて。悪い夢を見ているようだ。

「それより智栄、何でこんな時間まで先生と一緒にいるんだ?」

「えっ」

 何気ない父親の言葉に私はドキリとした。考えるまでもない当然の質問だ。

 ただの教師と生徒がこんな時間まで一緒にいる理由なんて、そうそう無い筈だから。

「………」

 どうしよう。どう答えよう? どんな風に返したら、父親は納得するのか――そう考えあぐねていると。

「たまたま学校帰りに、智栄さんに会ったんですよ。予習でわからない部分があるというので、

近くのコーヒーショップで質問に答えていたのですけど――遅くなってしまったので、自宅までお送りしたんです」

 返答に困った私の替わりに、センセが機転を利かせて答えてくれる。

 センセは本当のことを言わないでくれたのだ……私がホテルに居たことを、黙っていてくれた。

「まぁ、そうだったんですか〜。智栄さん、本当に勉強熱心で感心しちゃいますね〜。

川崎先生も、生徒さんの指導にとーっても熱心だっていうの、伝わってきます〜」

「遅くまですみませんね、川崎先生。そういうことであれば、大変お世話になりました。よろしかったら、一杯飲んでいきませんか?」

「ちょ、ちょっと……お父さん、逆に悪いよ、そんなの」

 一杯――アルコールのことを言っている。私は早口に父親の提案を制した。

「どうしてだ、智栄? お前、お世話になったんだから、お礼の一つでもしないと悪いだろう。手ぶらでは帰せないじゃないか」

 そりゃ、私はお世話になったよ。お世話になったけど、それと父親は全く関係ないじゃないか。

「いえ、もう遅いですし、コーヒーを頂いたら直ぐにお暇しますので」

 センセは両手を振りながら、笑ってみせたけど、内心すごく困ってるに違いない。

「そうですかー……じゃあ是非、また近くにお寄りの際はいらしてくださいね」

「お待ちしてます〜」

 しつこく食い下がりそうな雰囲気だったけど、二人は意外とアッサリ諦めてくれた。

 センセ、きっと迷惑に感じたよね? 面倒くさいことに巻き込まれたって思ってるよね?

 あぁ、父親の所為で私にまで悪印象を持たれないといいんだけど。

「ありがとうございます」

「その時は私にご馳走させてくださいね〜。こう見えて、結構料理は得意なんですから〜」

「あの」

 最早家族のように振舞っている吉川さんの存在が気にかかったのだろう。川崎センセが少し言い辛そうに切り出した」

「はい〜?」

「お姉さん、でいらっしゃるんですか? 智栄さんの……」

 センセも私と同様、彼女と父親との間で行われた行為は把握している筈、だから本気でそうは思ってないのだろう。

 会話の取っ掛かりとしてそんな風に訊ねたようだった。

「あ、私ですか〜? いえいえ、違うんですよ。私は、水上さんとお付き合いさせて頂いている、吉川愛美って言います」

「………お付き合い」

「はい〜、そうですよね?」

 吉川さんが、確認するように父親に訊ねる。

「そうなんですよー、今度再婚することになりまして。今度から、此処で三人で暮らしていくことになりました。なあ、智栄?」

 ニコニコと満面笑顔で答えながら、私に振ってくる父親。

 そうだ――そういえば、昨日、正確に言えば一昨日か。突然そんなことを言われたんだった。

 私は全然それを快く思ってないし、受け入れたくない気持ちで一杯だけど――。

「水上?」

 問いかけられていたのに反応しなかった私へ、センセが気を回してもう一度訊ねる。

「あ……あ、はい、そう、そういうことで。私も、嬉しいです」

 いけない、ついうっかり感情が先行して、返事をすることができなかった。

 何でもないように笑顔を貼り付けると、私は立ち上がった。

「センセ、私、車まで送りますね。……もうそろそろ帰らないと、明日の予定に響いちゃいますよ?」

 助け舟を出すつもりで、私がきっかけを作ると、その計らいに気付いたらしい先生も立ち上がる。

「ああ――それでは、すみません、何だか突然お邪魔して。智栄さんを遅くまで連れ回してしまって、申し訳ありませんでした」

「えぇ、もう帰っちゃうんですか〜?」

 吉川さんが至極残念そうに眉を顰めた。と思ったら、急にぽん、と手を叩いて、

「そうだ、でしたらお土産持って行って頂きましょうよ〜、ねえ?セイちゃん」

「ああ、そうだな、ちょっと待ってて下さい」

 二人がそう言って、父親と吉川さんがリビングから出て行く。

 お土産――その言葉に、胸騒ぎがした。お土産って何?

 ウチから何かお土産に出せるようなモノ、あったっけ……?

「何だか、逆に気を遣わせて悪いことしちゃったな……ごめんな、水上」

 隣のセンセが頭を掻きながら眉を下げる。

「すみません〜、お待たせしました」

「大した物はないんですけどねー、よかったら」

 吉川さんの手には、『AQUA』と社名が入った白い紙袋が握られていた。

 ――サァーっと、自分の血の気が引いていく音が聞こえた。

 嫌な予感がする。いや、でも、まさか。ううん……この二人ならそのまさかも有り得る。

 『AQUA』で売ってるモノなんて、ああいうモノしかないじゃないか。

 まさか。まさか、まさか、まさか―――その袋の中身は………!

 私の頭の中には、そういった品物の数々が浮かんでは消えていく。

 そんなの困る! センセは、ウチの会社がアダルトグッズの会社だってことも知らないのに……!

「お、お父さんも吉川さんも、な、何考えてるのっ!!」

 私は、生まれて初めて、本気で家族に大声を上げた。

 直後、一瞬の静寂。父親から、吉川さんから、そして川崎センセから注目されているのを感じる。

「智栄さん?」

「智栄、何を怒っているんだ?」

 私は浅い呼吸を繰り返しながら、思わず胸を押さえた。

 怒声に自分自身が一番ビックリしてしまったようで、ドッドッ、と嫌な感じに鼓動が速まる。

「水上、どうした?」

 真横に居るセンセが、様子のおかしい私の耳元でそっと訊ねた。

「あの……智栄さん、私、何か気に障るようなこと、しましたでしょうか……?」

 みるみる、不安げな表情に変わっていく吉川さん。紙袋を持つ手が震え、バサッという音を立てて床に落ちた。

 落ちた袋の口から、コロンと転がり出てくるものが1つ――それは、何の変哲も無い、ただの林檎だった。

「うちの実家から送って来たんです……でも、もしかして、川崎先生、林檎はお嫌いなのかしら……?」

「あ、いえ、林檎、好きですよ!」

 私の様子と彼女の様子を見比べながら、何度も頷くセンセ。

「あ、あはは――なんだ、林檎か……」

 脱力するように、言葉が零れた。

 私の早とちりだったってことか――急に体から緊張が解けたような、重くダルい感覚が襲ってくる。

「何だ、急に大声を出して。すみませんね、智栄は自慢の娘なんですけど、ちょっと面白いところもあって」

 父親にだけは言われたくない、と思ったが、私の挙動を特に怪しまなかったのだけが救いだった。

 吉川さんの替わりに、父親がAQUAの紙袋を拾い上げ、転がり落ちた林檎を中に戻すと、

「さ、先生、どうぞ持っていってください。大した物じゃないんですけどね」

 と、川崎センセに差し出した。センセは「ありがとうございます」と頭を下げながら、それを受け取る。

 ダメだ、もうこの空間で上手く話せる気がしない。

「じゃあ、私、センセ送ってくるね――センセ、行きましょう」

「あ、わかった……じゃあすみません、ご馳走様でした」

「是非またお立ち寄り下さいね〜」

「いつでもお待ちしてますよ。智栄をよろしくお願いします」

 2人の声を背に、私と川崎センセは部屋を後にした。

「……水上の言うとおり、あっけらかんとしたお父さんだな。でもサッパリしてていい人じゃないか」

「………」

 センセはあくまでにこやかに、笑い交じりで言ってくれたけど、もう恥ずかしくて会話をする気にならなかった。

 父親に会わせるのさえ抵抗があったのに、あの緩い空気感の吉川さんや、二人の情事まで見せてしまうことになるとは……。

 あぁ、もう嫌だ。こんな非常識なシチュエーションが何処にあるっていうんだろう。

 穴があったら入りたいという言葉を、今ほど使いたいと思った瞬間はない。

「どうした?」

「………」

 エレベーターに乗り込んでも口を利こうとしない私が気にかかったのか、そう訊ねられる。

 センセも相当変わってる人だ。あんな場面に遭遇したら、普通ヒくか呆れるかの二択しかないだろう。

 それなのに、センセはこうやって何でもない風に話しかけてくれる。

 ……いや、大人だからか。ここで露骨に不快感をアピールしても、何にもならないもんね。

「水上?」

 それでも心配そうな視線を向ける彼に、私は思わずポツリと漏らした。

「……ヘンな家って、そう思ったでしょう?」

「え?」

「高校生の子供がいる父親の癖に、娘とさほど変わらない若い女の人を自宅に連れ込んで、あんなことして……。

それを娘やその先生に気づかれても、恥じるどころか隠そうともしないなんて、どう考えたって変、ですよね」

「………」

 エレベータの扉が開いた。横並びにロビーを抜けエントランスに出ると、来た時と同じ漆黒が広がっていた。

 空気も少しだけ冷たくて、まるで全く違う空間に出たみたいな感じ。

 あまりに現実味のない出来事を通過した所為もあり、何だか今が夢みたいに感じていた。

 いっそ夢ならいいのに。悪い夢なら――それなら、覚めたらセンセも今見たコトなんて忘れてくれる。

 そんな浮遊感が、優等生でなければいけないという私の意識を薄れさせていたのだろう。

「私、本当は、ちっとも嬉しくないんです。あの二人が結婚するの、本当は、すごく迷惑だと思ってて」

「水上……」

「年頃の娘がいるの分かっててああいうコトとか、信じられない……もう、付き合いきれないって言うか」

「………」

「なんて、センセに話すコトでもないですよね、ごめんなさい」

 吐き出してしまってから、私はちょっと後悔していた。

 今まで悩みの相談相手は、他でもない自分自身だった。何だって自分で解決できた。

 それなのに、どうして今になって他の誰かに聞いて貰いたいなんて思ってしまうんだろう。

 そういう気持ちは断ち切った方がいい―――と、もう一人の私が告げている気がして。

「けど、言うほど私、気にしてないですから。それじゃセンセ、今日は色々お騒がせしてすみませんでした」

「あ、おい!」

 優等生の私は、礼儀正しく身体を折ると、そのまま今来た方向へと駆け出した。

 ロビーを通り抜け、エレベータに乗ると、乱れた前髪をくしゃっと掻く。

 ……もしかしなくても、マイナスイメージ、だよね。

 教師として慕っていた川崎センセだけに、さっきの気の緩みがより悔やまれる。

 父親達だけじゃなく、私の事もヘンって思われたかな?

「センセの前では、一番、イイコでいたいのに……」

 口の中でそう呟いたら、丁度エレベータが停止して、扉が開いた。

 落ち込むにはまだ早かった。まだ通り抜けなければいけない関門が一つ残っている。

 自分の部屋にたどり着くまでもう少し。あともう少しだけ、笑顔でいればいい。

 そう言い聞かせながらフロアに降りると、私は大きく息を吐いた。