Scene.4-2




 自宅にて夕食を終えた私は、ダイニングから自室へ戻って来るなり、ぐるぐると肩や首を回した。

 父親と吉川さんと三人で囲む食卓はまだ慣れない。

 今日はご飯と焼き魚、青菜のおひたしにけんちん汁というTHE・和食な献立。

 先日、タルトが出てきたときはどうしようかと思ったけど、吉川さんにもこういう真っ当なメニューが出せることを知って安心した。

 ホテルから帰るなり食事の時間となってしまったので、まだ制服姿のままの私。

 そろそろ部屋着に着替えようかと思っているところで、スカートのポケットに入っていた携帯が振動する。


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 送信者 : 川崎千紘
 件名 : Re13:水上です。
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 本文 :
 俺っていっつもこのパターン
 なんだよな(*_*)
 今日はヤケ酒して寝るわ。
 水上はちゃんと今日の復習と
 明日の予習して寝ろよ(笑
 
―――――END―――――


 川崎センセだ。と顔が綻ぶも、届いたメールにはこんな文面が。

 ……? どういうことだろう。センセが何を言わんとしているのか全然分からない。

 でも、いつも明るくてマジメな彼がこんな風に投げやりなのって珍しい気がする。

 ――何があったんだろう。

 心配になるのと同時、妙な不安が頭を擡げる。それだけのダメージを被ったってことだよね?

 ……直接、センセに訊いてみたい。「何があったんですか?」と。

 その前のメールでズバリ尋ねているのに、答えをはぐらかされたってことは……生徒の私には話せないことなんだろうけど。

 もしかして、と、思う。

 これは恋愛の悩みなんじゃないだろうか。

 根拠はないけど、文章から受けた印象でただ漠然とそんな気がした。それなら、おいそれと言いたくない気持ちも分かる。

「…………」

 センセの悩みが恋愛がらみじゃないかと思った途端、余計に真相を知りたくて仕方がない。

 知ったところで私に何かあるワケじゃないし、他人の悩みを興味本位で訊くのっていけないことだとは思うけど。

 ……ううん、興味本位なんかじゃない。

 川崎センセだから知りたいと思うのだ。他の誰かが同じ状況でも、私の気持ちはこんな風に突き動かされたりはしない。

 直接訊いてしまおうか? 電話で。

 なんて大胆な考えが頭を過るのを、私はかぶりを振って打ち消した。

 何考えてんの。用事もないのに電話なんてして、センセに迷惑かけるだけじゃない。

 第一、そんなことしてウザいって思われたりするのは嫌だ。

 まるで生徒と教師という立ち位置を私が把握できてないみたいだもん。そこを勘違いするほどバカじゃない。

 私はメールの文面を何度も読み返しながらじりじりとした。

 下らないことを考えていないで、センセの言う通りさっさと宿題をやって寝てしまう。

 開いたままの携帯を閉じて、それを遠ざけるようにベッドの上に放る。

  『まだ高校生なんだから、感情が先行するのは当たり前だ。あんまりにも大人びてたら、それはそれで可愛げないぞ』

 そのとき――いつか、川崎センセが私に向けてくれた言葉を思い出す。

「…………」

 私は、投げたばかりの携帯を拾いに行くと、再度ディスプレイを開いた。メールの文面が目に入る。

 
『今日はヤケ酒して寝るわ』

 ……やっぱり確かめたい。センセが何に心を弱らせているのか。

 恩着せがましく言うつもりはないけど、私に話してセンセの気持ちが少しでも晴れる可能性があるのなら。

 葛藤の末。ベッドを椅子に見立てて腰掛けると、電話帳からセンセの番号を呼び出し、発信した。

 ――はたして出てくれるだろうか。

 ヤケ酒って言っても、誰かと一緒に飲んでいる可能性だってあるんだなぁと、今更ながら気がつく。

 そろそろ留守番電話サービスに切り替わってしまうかという頃、諦めかけた私の耳元に川崎センセの声が聞こえてきた。

「もしもし?」

「あっ――あの、もしもし。み、水上です」

「おー、水上ー」

 いつもと同じ口調だけど、声に力がない。カラ元気な感じと言うか、何処となく滑舌も悪い気がする。

「センセ、お酒飲んでるんですか?」

「正解ー、よく分かったなー。っていうか、俺がメールに書いてたか」

 微妙なノイズは交じっているけれど、お店のような賑やかな場所にいるような感じじゃない。

 自嘲気味に笑うセンセは、一呼吸置いてから、

「――で、どした? 何か用事か?」

 と、尋ねる。

「あっ、ええと――」

 どうしよう。当然ながら、用事らしい用事なんてない。ただセンセが何に凹んでいるのかを知りたかっただけで……。

 こういうのって、どんな風に切り出したらいいの?

「せ、センセ、今ってお独りなんですか?」

 問いを誤魔化すように、違う質問を向けてみる。

「ん、独りだよ。マンションのベランダで缶ビール飲んでる。……寂しいとか言うなよ?」

「あ、いえ。ヤケ酒って仰ってたから、何処か出かけてらっしゃるのかなと思って」

 どうやらセンセは自宅に居るらしい。楽しい空間に割って入ったのではなかったようで安心する。

「あぁ、外で飲んでもよかったんだけどな。でも明日の授業のプリント作らなきゃいけなかったし」

「そうだったんですね」

「……もしかして水上、俺のこと心配して掛けてくれたとか?」

 目的を言い当てられてしまいドキリとした。直ぐに返事が出てこない。

「電話。……なんてな、ごめん。今酔っ払ってるから、若干絡んでるかも」

 自分で言いながら、川崎センセはくっくっと可笑しそうに笑い声を立てている。冗談のつもりだったみたいだ。

「そ、そうだって言ったら……センセは迷惑に思ったりしますか?」

「え?」

「川崎センセ、珍しく落ち込んでるみたいだったので……その、どうしたのかなって」

「…………」

「だ、だから別にこれといって用事があるわけじゃなかったんですけど……す、すみません。プライベートな時間に電話したりして」

 訊ね返したセンセの声が不意に真面目になったから、私は焦って捲し立てた。

 勤務外の時間に掛けてくるなんて、厚かましい生徒だって思われただろうか。やっぱり掛けなきゃよかった。

 後悔一色で埋め尽くされる思考。ストップを掛けたのは川崎センセだった。

「――水上は本当に優しいヤツだな」

 ホッとしたような吐息の後、彼が続ける。

「ん、お察しの通り結構凹んでる。でもこうやって教え子を心配させるなんて、俺も教師としてまだまだだな」

「そんなことないです!」

 私は直ぐに否定した。

「私は川崎センセのこと、教師として尊敬していますから」

 本当は……私が教師として一目置いているのは彼だけだと、特別なんだと言いたかったけど、そういう言い方は重いかなと止めておいた。

 センセは私たち生徒のために十分過ぎるほど時間や力を尽くしてくれている。

 授業のプリント一つとっても、仕事だからと言えば勿論にしても板書で済ませる方法も取れるのに、

 一枚の紙に纏めた方が私たちにとってはありがたいと分かっているからこそわざわざ作ってくれるのだし。

 私個人のこともそう。センセは担任でもない、ただの生徒の一人に過ぎない私の話を聞いて、気に掛けてくれる。

「……ありがとな。生徒相手に悪いと思いつつ、でもこうして気に掛けて貰えるのって、やっぱ嬉しいもんだよ」

「いえ……」

 どうやら迷惑にはなっていないみたいだ。安心して胸を撫で下ろす私に、センセが続ける。

「それじゃお言葉に甘えて、ちょっとだけ愚痴ってもいいか?」

「ど、どうぞ」

 頷いた後、何か嚥下する音。ビールを口にしたんだろう。

「……メールにも少し書いたけど、俺っていっつも肝心なところでチャンスをモノに出来ないっていうか、詰めが甘いんだよな」

「…………」

「いよいよ上手くいくかもしれないって手応えを感じても、肩透かしで。……思えば学生時代からそんな役回りだったもんなあ」

「肩透かし、ですか」

「悪い、それだけじゃ何の事だかサッパリだよな。……実は情けないことに、俺、失恋したの」

 ……!

 失恋。やはり恋愛絡みだったのかという感情と、一体相手は誰で、どんな関係だったのだろうという関心が同時に生じる。

 もっとも――相手に関しては、私の中で候補になる人物がいた。

「あの、間違ってたらごめんなさい。相手って、千葉先生ですか?」

「……何で分かったんだ?」

 やっぱり。すんなりと認めつつも訝しがる川崎センセに、私は少し笑って答える。

「授業の質問に行ったときに、『朧月夜』の話をしたの、覚えてませんか?」

「ああ」

「そのとき、千葉先生に似てるって言ってましたから。それに、アタック中だみたいなことも言ってませんでした?」

「――うわ、そうだったな」

 言われて思い出したという返答だ。

 私は妙にショックだったから記憶に深く残っているのだけど、センセにしてみたら大したエピソードでもなかったのかもしれない。

 家庭科の千葉先生。若くて、明るくて、何より綺麗で――川崎センセに限らず男の人は彼女みたいなタイプに惹かれる人が多いのだろう。

「千葉先生とはお付き合いしていたんですか?」

「うーん……俺からしてみたらいい雰囲気かなと思ってたんだけど、どうやら勘違いだったみたいだ」

「……どういう意味ですか?」

「押せば付き合ってくれそうな感じって言うか、向こうも俺のこと男として見てくれてるのかなって思ってたんだけど。

……でも違ったんだよなあ。彼女、もう付き合ってる人がいるみたいで」

 「はぁ……」と落胆のため息が聞こえてくる。

「俺さ、千葉先生が着任したくらいからいいなって思ってて。

で、今日、大きなアクションを起こしてみて、彼女も俺のこと考えてくれるみたいだったんだけど……。その……。

直後に彼女が同僚とイチャイチャしてるところを見てしまったっていうか……。うーん、酔ってるとはいえ生徒にこんなこと言うのは気がひけるな」

「………?」

 川崎センセは言い辛そうに唸っている。

 少しの間迷ってから、「他の生徒には絶対に内緒な」と釘を刺して、彼が再び口を開いた。

「職員室で――何と言うか、性的な接触って言い方をしたらセクハラにならないのかな。 ……とにかく、そういうことしてるのを偶然見掛けてしまったんだよ」

「!?」

 川崎センセが、私にも気遣いながら選んだ言葉。

 性的な接触っていうのは、つまり……千葉先生と誰かが、如何わしいことをしていた?

 何て大胆な。職員室で――なんて、一歩間違えれば大変なことになるだろうに。

 私のリアクションに、喉を震わせた笑いが返ってくる。

「……そーだよなあ。驚くよな。正直俺も驚いた。二人ともそういう軽率なことしそうなタイプに見えなかったし。

結局、暫らく空き教室で時間潰したってわけ。その間も、その光景が全然頭から離れなくて」

「相手の先生って誰だったんです?」

「それは流石に水上にも言えないよ。水上を疑ってるわけじゃないけど、その先生を見る目が変わったら悪いし」

 尋ねつつ、私は相手が誰かという部分にはさほど関心はなかった。

 男が欲望に支配されている生き物であるのはよく知っている。

 そもそも男自体を好意的な目では見ていないのだから、相手の教師が誰であっても私の心境に変化はないだろう。

 ……でも、川崎センセがそんな風に言うってことは、おおよそそういうイメージとはかけ離れている先生なのだろうな。

「俺はその同僚の先生のことも結構好きだから、二人が上手くいくのは喜ばしいことなんだけど……。

頑張り次第では俺が千葉先生と付き合えてたのかもなって思うと、どうしても落ち込むよな」

「……そう、ですよね」

 もしかしたら手が届くかもしれないと思った好きな人が、他の誰かに奪われてしまう。

 それって凄く凄く辛いことなんだと思う。私はマトモに恋愛なんてしたことないから、想像しか出来ないんだけど……。

「……千葉先生の、どういうところが好きだったんですか?」

 失恋したばかりの人に、相手のことを訊くのって悪いかなと思いつつ尋ねてみると、センセは静かにこう答えた。

「そうだな、単に明るくてカッコいいタイプが好きなのもあるけど……」

 考えを巡らせているらしく、暫らく声の代わりにビールを飲み込む喉の音が聞こえる。

「……目が離せなかったんだよな」

「……?」

「最近は特に。……4月の下旬くらいから、千葉先生に元気がないのが気に掛かってな。

最近は挨拶する顔もどこか疲れた感じがするっていうか……。どうにか力になれないかって色々考えてたんだよ。

俺で解決できることがあるなら――って気持ちが前に出たのが、理由の一つかもしれない」

 
『不幸な女性や可哀想な女性を見ると放っておけない男性っていうのが居るらしいんです。

 何が何でも救いだしてやらなきゃっていう、男性独特の心理みたいなんですけど』


 つい先刻、神藤が教えてくれた、カメリアコンプレックスという言葉を思い出した。

 『そういう男の人って、その、女性を助ける自分に酔いたいっていうか……ヒーローになる欲を満たしたいために、不幸な女性を探すっていうか……』

 そんな筈はないと思い直す。別に川崎センセは、そういう自分の欲求を満たすために千葉先生と好きになったワケじゃない。

 きっとセンセが千葉先生を好きになったとき、彼女も何かに心を悩ませてはいなかっただろうし……。

 ……だけど、じゃあ、センセが私に親身になってくれるのはどうして?

 大勢いる生徒の中の一人に過ぎない私を熱心に指導してくれたり、連絡先を教えてくれたり、こうして弱音を見せてくれるのは……。

 ――私のことも、そんな風に見てるってこと? 私が『不幸』で『可哀想』だから、救いの手を差し伸べてやらなきゃっていう?

「……水上?」

「は、はい」

 会話そっちのけで考え込んでいた私を窺うように、センセが私の名前を呼ぶ。

「ごめんな、変な電話に付き合わせて。……俺も生徒にこんな愚痴吐いたりなんかして、申し訳ないと思うんだけど――」

「あっ、謝らないで下さい」

 別に川崎センセとの会話が退屈とか、そういうことじゃない。寧ろ逆なんだから。

 私は遮って言った。

「謝る必要ないです。電話掛けたのは私ですし――私、川崎センセに電話掛けて貰って救われた部分があったので、

私にもセンセの力になれることがあればって。……おこがましいんですけど」

 言いながら、自分で抱いた疑問に対して「別にいいじゃないか」と思うことにした。

 別にセンセがその――カメリアコンプレックスだからって、何の不都合があるっていうんだろう。

 センセが私を気に掛けてくれているという事実。それで十分嬉しいと思えるのに。

 否定したくなるのはきっと……それだけでは嫌だという身の程知らずな感情が芽生えてしまったせい。

 距離感を間違えちゃいけない。

 私は生徒。彼は先生。

 センセは私が生徒だから――恋愛対象じゃないからこそ、こんな風に自分の恋愛について赤裸々に話してくれるんだ。

 歳も十歳以上違うし――センセが辛うじて二十代ってことは、二十八、九くらいだろうし――当たり前と言えば当たり前。

 そもそも、私と千葉先生では全然タイプが違うんだから。勘違いしてはいけない。

「いや、ちょっと聞いて貰ってスッキリしたよ。……あんまりこの手の話って、他の先生にも出来ないしな。

社会人やってると、なかなかすぐには友達も呼び出せないし。本当、ガス抜き出来てよかったよ」

「……それなら、よかったです」

 そう。それでいいんだ。川崎センセにそんな風に言って貰えるだけで、私としては大満足。

 自分が好意を持っている人に感謝されるのだから。これ以上何を望むというのだろう。

「俺、立ち直りの早さだけは自信あるんだ。基本的にプラス思考だから、今回はツイてなかったと思ってまた頑張るよ」

「そうして下さい。……川崎センセが元気ないと、他の子たちも気にすると思いますから」

「ん。……本当にありがとうな、水上」

 携帯にくっつけていた右耳から、優しい声。心からそう言ってくれているのだと分かるトーンに、胸がドキドキする。

 ――意識しちゃだめだ。彼は、私の高校の先生で。それを忘れちゃいけないんだから。

「……あー、なんかスッキリしたら急に眠くなってきた」

「プリント作るんでしょう? まだ寝ちゃダメですよ」

「ん、そうだよな、わかってる」

 動揺を悟られないよう努めて明るく言う私に、センセはいつもの調子でノリ良く答えてくれる。

「……それにしても今日は肩凝ったな。ハプニングがあったのもそうだけど」

「……? 千葉センセのこと以外で、ですか?」

「そ。……あぁ、今日は水上と顔合わせてないもんな。実は今日一日、スーツだったんだよ」

「ええ?」

 ビックリした。……社会人の男性が職場でスーツっていうのは、世間一般では当たり前だけど、センセにとっては別。

 私が入学してからというもの、センセのスーツ姿は一度も見たことがない。

 正直、事件と呼んでいいレベルだ。

「あはは、そういうリアクションになるよな。……俺も成陵に居るの長いけど、スーツ着たのなんて式典を除いたら二回目だよ。

肩の部分が妙に突っ張って黒板に書くのも一苦労だったよ。いつもこんな窮屈に授業してるなんて……って、周りの先生方を尊敬した」

 川崎センセの言う通り、彼は普段からお世辞にも教師然とした恰好はしていない。

 ジーンズで授業をするセンセなんて、名門の成陵でも彼くらいだろう。

「でもスーツなんて、急にどうしちゃったんですか?」

 式典でくらいしか着ないはずのスーツを、通常授業日の今日にどうして?

「んー、実はさ。生徒の一人に言われたんだよ。『スーツの方が絶対似合うから、たまには教師らしい恰好でもしたら』って。

生意気だよなあ。……で、からかいに乗ってやったっていうか」

 言いながら、センセもまんざらじゃないようだけど。

「へえ、そうなんですか。……私の知ってる人ですか?」

「どうだろうな。斉木も水上と同じ3年だけど、D組だから、接点はないかもしれないな」

「……斉木さん?」

「お、知り合いか?」

 意外な名前が出てきたのでつい高めのトーンで返すと、センセは意外そうに尋ねた。

「あ、いえ、知り合いってほどでは……。ただ、美人で目立つ人なので」

 うっかり私と繋がっていることをバラして、彼女に迷惑を掛けてはいけない。なので、曖昧に答えた。

「あぁ、斉木はいい意味で高校生っぽくないもんな。……その斉木も水上と同じで、よく授業の質問に来るんだ。

斉木の方は放課後の時間帯が多いんだけど」

 職員室で顔を合わせたことは一度もない――と考えていたから、センセの言葉に納得した。

 それなら、主に昼休みに川崎センセのもとへ訪れる私と会う機会がなかったことも頷ける。

 『あぁ、斉木はいい意味で高校生っぽくないもんな』

 ……何だろう。その一言で、心の奥がちくんと痛んだのは。

 
『スーツの方が絶対似合うから、たまには教師らしい恰好でもしたら』

 そんなことが言えるなんて、斉木さんとセンセは結構仲がいいのだと思う。

 …………。やだ。さっきとは違って、嫌な感じに鼓動が速まる。

「斉木もなかなか古文の授業を頑張ってくれてるんだよな。教師にとってはありがたい生徒だよ」

「…………」

「どした、水上?」

「……あ、いいえ。……ごめんなさい、センセ。私、そろそろ明日の予習しなきゃ」

 楽しかったセンセとの電話。なのに、どうしてか胸騒ぎがして。

 ……センセから斉木さんの名前を聞くのが怖くて、私は精一杯、平素を装ってそう言った。

「あぁ、そうだよな、ごめん。俺もそろそろプリント作るわ。……じゃあな、水上。今日は本当にありがとな」

「いえ……」

「それじゃおやすみ」

「はい、おやすみなさい」

 通話を切ると、私は未だどくんどくんと不快に騒ぎ立てる左胸をそっと押さえる。

 説明のつかない焦燥感と不安感が、容赦なく私の胸の内を満たしていく。

 この感情が一体何なのか――私自身が把握できるのは、ほんの少し先のことだった。