Scene.4-5
「ちっさっかっさ〜ん。朝ですよぉ、起きて下さ〜い」
「……おはようございます、吉川さん」
吉川さんの甘ったるい声は、朝一番に聞くには辛い。それを合図に身体を起こした私は、意識して頬の筋肉を上げて言った。
「おはようございます〜。お風呂、沸かしてありますから〜。智栄さんが出てくるころに、朝食も用意しますねっ」
彼女は私の部屋のカーテンを開けてから緩い微笑みを浮かべると、パタパタとスリッパの音を立てて部屋を出ていく。
最近、朝一番の私の仕事といえば、こうして作り笑いすることだった。
珍しく寝坊をしてしまったあの日。急いでいた私は、それとなく彼女を咎めるのを忘れていた。
それ以来、吉川さんは私の部屋に入っても構わないのだと解釈したらしく、こうして甲斐甲斐しくも毎朝起こしに来てくれるようになったのだ。
しかも、何気に私の朝の行動パターンを熟知していて、それに沿った準備までこなしてくれるという徹底っぷり。
少数派かもしれないけど、私は朝晩二回入浴しないと嫌なタイプ。夜は一日の汚れを落としたいし、朝は寝てる間にかいた汗を拭いたい。
彼女はそれを言葉にしなくても把握していて、私が起きる時間に合わせて湯船にお湯を張っておいてくれる。
……朝はシャワーだけでも構わないし、そもそもそんなこと頼んじゃいないのに。
余程、父親に気に入られたいんだなぁ、としみじみ思う。
ベッドから降り、一つ伸びをすると、頭の前の方がズキンと痛む。睡眠不足のときはいつもこう。
先日寝坊をしでかしてしまった日から、睡眠には気を使っていたのだけど、昨晩はどうしてもある人物からの連絡を待たなければならず、
眠りに入ったのは朝方近くになってからだった。
気を抜けば再び睡魔が襲って来そうな瞼を擦りながら、私は着替えの類を纏め廊下に出た。
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「じゃーん。今日はー、ミートパイにしてみました〜!」
ダイニングのテーブルにつくと、吉川さんはテレビから流れる若い女子アナの声に負けないくらいのテンションで言い、中央にドン、と大きな丸皿を置く。
その上には、皿よりも一回り小さい円を描く焼き立てのパイ。八等分にカットされた切れ目から、トマトの甘酸っぱい香りがふわりと漂う。
吉川さんはこの手のワンホール攻撃が得意だ。今日はミートパイだというから、まだマシな方。
初回の林檎のタルトや、バナナシフォンケーキ、酷いときはザッハトルテなど、あからさまにデザートだろという前科は数知れない。
「おぉー、美味そうだなぁー」
「智栄さんが、朝も出来たら甘くないモノがいいって仰ったので〜、頑張ってみたの〜」
「愛美は本当に頑張り屋さんだな。よしよし、偉いぞ」
私の対面に座る父親がそう言って、寄ってきた吉川さんの頭を撫でている。
……偉い、ねぇ。
確かに吉川さんは料理が上手い。ケーキの類はどれを食べても完璧だ、それは認める。
けど。朝一番に甘いものを食べ続けるのは身体的にキツい。私の場合、朝は抜くことが多かったから尚更だ。
彼女は、糖分を摂る=頭の回転が速まる=成績UP! という等式に乗っ取り、朝はスイーツ攻めをしてくるのだけど、
個人的には夕食で出してくれるような普通の献立を望んでいるワケで。
このままでは朝スイーツが定着してしまうと危ぶみ、昨日、控えめにアピールしてみたのが功を奏したようでホッとした。
何故か、焼き菓子からは離れてくれないみたいだけど――まぁ、今はそれでも構わない。
「それじゃあ、皆さん揃いましたし、頂きましょうか〜」
小皿にパイを取り分け、エプロン姿のまま父親の隣の席に着く吉川さん。
彼女は私と父親の顔を交互に見て、にこやかに言った。
「いただきます」
彼女が胸の前で手を合わせると、それに倣い私と父親も同じアクション。そして。
「いただきます」
復唱。……これも、朝の仕事の一部になった。
添えられたフォークでパイを口に運びながら、内心で面倒くさいなと悪態をつく。
吉川さんがうちに来てからというもの、無駄に『皆一緒』をやりたがるから困る。
食事は出来るだけ家族三人、全員が揃ってから。休日の午後にはそのルールを適用しつつ『お茶の時間』なんてものも存在する。
お手製の焼き菓子に、合わせて選んだという紅茶を淹れた吉川さんがリビングに私と父を小一時間ほど軟禁。団欒という名の拷問を始める。
会話の内容は「学校生活はどうなの?」とか、「勉強は捗ってる?」とか。
そういう他愛のないことを訊ねられるのが一番我慢ならない。
どうしてあなたに話さなきゃならないっていうのか。本当は、家族面されるのだって頭に来るのに。
「智栄さん、今日の最初の授業は何なんですか〜?」
――ほら早速始まった。吉川さんがのんびりとした口調で尋ねる。
「現代文です」
私は簡潔に、且つツンケンしないように答えた。
「そうか。受験生で現代文っていうと、どんなのを読まされるんだ?」
その話題に父親が乗っかる。これもパターンだ。私の授業に興味を持ったことなんて今までなかったのに。
吉川さんとの結婚を決意して家族ごっこにハマりだしたらしく、それっぽい話題を振ってくるようになったのがうざったい。
「受験生になってからは、入試の予想問題を解くことが多いんだ」
「採点もその時間の内にするのか?」
「そうだね。次の授業に持ち越すことはないかな」
「智栄は優秀な子だからなあー。さぞかしよく出来るんだろうなあ」
「私は理系だから、理系科目と比べると少し自信ないかもしれないな」
ひき肉とトマトのかたまりをせっせと消費しながら、一つ一つの質問に笑顔で対応する。
ミートパイってあまり食べる機会がないけど、程よいボリュームで意外と好きかもしれない、と頭の片隅で考える。
「何仰るんです〜、智栄さんはオールマイティじゃないですか〜。私なんて、得意科目とそうでないもので、偏差値が二倍くらい違ったんですよ〜」
「わはは、二倍かー、それはヒドいな。でも、そういうところも可愛いぞ」
「やだ、セイちゃんったら」
……私の話から極端な角度をつけて夫婦漫才に発展するのさえ、パターン化している。
普段なら「微笑ましいですね」って表情を見せるところだけど、今日はちょっと疲れているから急いでいる振りで誤魔化しておこう。
「――ご馳走様でした。今日も美味しかったです」
ノルマを食べ終え、丁寧な言葉で締めくくると、私は席を立ち、自分の部屋へスクールバッグを取りに行く。
そして再びダイニングに顔を出した。
「すみません、吉川さん。今日は友達と勉強会してくるので、夕食の時間に間に合わないかもしれません。
なので、私の分は作らなくて大丈夫ですよ。一緒に食べてきちゃいます」
「そうなんですね〜、分かりました。お勉強頑張って下さいね〜」
「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます。我儘言ってごめんなさい。……それじゃ、行ってきます」
「気をつけて行って来るんだぞ、智栄」
「はい」
今日は、斉木さんを呼び、『退会の儀式』を実行する日。時間は放課後。
こうして儀式が難航したときのための口実も作っておいたし、何ら問題はない。全てにおいて準備万端だ。
――そう、全てにおいて。
私は二人に頭を下げてから家を出た。
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「まさかオトモダチと同じ目に遭うコトになるなンてなー……。亜美チャンも気の毒」
コンピューター室にずらりと並ぶ授業用のパソコン。三宅が教室中央の適当な席の椅子を引き、腰掛けて呟く。
「あ……そ、そうでしたねっ。む、村井さんって、た、確か斉木さんのお友達、でしたっけ」
三宅の言葉に、前方の扉の前でスタンバイしている神藤が頷く。
村井さんとは、斉木さんと同じD組の村井彩夏。懐かしい名前だ。
彼氏のために『Club Camellia』を辞めたいと言い出した裏切り者。
類は友を呼ぶとはこのことか。裏切り者は裏切り者とつるむように出来ているらしい。
「気の毒じゃないでしょ。本人が悪いんだから」
私はメインのパソコンが置かれている教卓の上に座って腕を組んだ。
悪いのは斉木さんだ。ルール違反を犯したのだから、罰されたって文句は言えないのに。
「ねえ? 鳴沢」
「…………」
私が同意を求めると、最前列の席の椅子に掛けていた鳴沢は、首を微かに縦に振っただけだった。
コイツ、まだ腑に落ちてないのだ。
数日前――ファミレスにて斉木さんの処分を話し合ったあの日以来、彼は何処か反抗的な態度を見せている。
頭のいい彼のこと、あからさまにそうだと分かる反応はしないのだけど、私に従順であるように振る舞いつつ、ほんの少しだけ毒気を含ませるというか。
――そう、女同士にありがちな、笑顔に嫌味を混ぜて付き出す、そんな違和感。
鳴沢ってば、案外女々しいヤツなのかもしれない。でも決定は決定なんだからね。素直に従って貰わなければ。
「でェもさ、『退会の儀式』って結構エゲツナイじゃんー。リアルに犯罪っぽいっつーか、さ」
三宅は椅子に深く掛けながら、行儀悪くも上履きを履いたままの足をデスクの上に乗せたりする。
「じゃないと脅しになんないでしょーが」
目的は女生徒の弱みを握り、『Camellia』について他言しないようにと厳重に口止めをすることだ。
これをキチンとこなしておかないと、『Camellia』の存続自体が危うい。
働いていた女の子の口から第三者――例えば高校の人間や保護者など――に伝わってしまうのだけは避けたいところなのだ。
そのためには多少強引な手段も止むを得ない。例えそれが犯罪だとしても、ちっとも悪いなんて思わなかった。
だって、女の子の方も『Camellia』に入会した時点で売春婦じゃないか。
立場は違えど犯罪者には変わりないのだし、今更被害者ぶられたところで同情なんて少しも湧いて来るものか。笑わせるな。
――そのとき、扉をノックする音が聞こえる。
「あの……斉木です」
ノックを追い掛けるのはほんの少しだけ不安げな斉木さんの声。
私は扉に寄り添うように立っていた神藤に目配せをする。彼が小さく頷いた。
「どっ、どうそっ」
促したのは神藤のぎこちない声。その声に従い、ガラガラと扉が開く。
「失礼します――」
綺麗な黒髪を揺らしながら、斉木さんが部屋に入ってくる。すかさず神藤が扉を閉め、内鍵を掛けた。
「よっ、ようこ、そ」
「……? ど、どうも」
神藤の早業に斉木さんが扉を振り返る。
コイツには、万が一彼女に逃げられたりしないようにさりげなく扉をロックしろと指示してあるのだけど、いかにも「疾しいです」というオーラ全開。
それじゃあ怪しまれるっつうの。
『退会の儀式』では決まり切った流れなのに、神藤は緊張するらしく毎回こんな調子だ。
気弱な神藤を入り口に置いた方が女の子に警戒されずに済むと踏んだのだけど、やはり改めるべきなのか。
「……あの、神藤くん、私、三宅くんに呼び出されて此処に来たんだけど、三宅くんは……?」
神藤の行動に引っ掛かったらしい斉木さんは、まだ彼以外の存在に気付いていないらしい。
「オレはココだよー。よーこそ、亜美チャン」
扉の前を通せんぼする神藤が答えるより先に、教室の真ん中でだらしなく座る三宅が片手をひらひらと振って見せる。
「三宅くん――」
「お疲れ様です、斉木さん」
斉木さんは顔馴染みの三宅を見つけて表情を一瞬緩めるも、私が教卓から声を掛けると再び綺麗な顔を強張らせた。
とはいえ、私に怯えているワケではない。こちら側を向いた際、鳴沢の姿を捉えたからだ。
「……ああ、気にしないで下さい。彼も『Camellia』のメンバーですから」
斉木さんと鳴沢は初対面の筈。彼女を安心させるためにそう付け加えると、彼女はホッとした表情で小さく頷いた。
そりゃ不安になるよね。自分が援交してるなんて秘密を知る人間は、最小限に抑えて置きたいのだろう。
「あの、三宅くん、用事って何?」
「あなたを呼び出したのは私です。斉木さん」
三宅が反応する前に私が答える。
すると、彼女はすらりと伸びた長い脚をこちらに向けながら、不思議そうに私の顔を見つめる。
「……水上さんが?」
「はい。一つ、あなたにお訊ねしたいことが出来まして」
私は、これから始まろうとしている出来事を悟らせないように、意識的に笑顔を浮かべた。
「何でしょうか?」
「……まどろっこしい言い方は嫌いなのでズバリ言います。斉木さん。あなた、我々『Club
Camellia』に隠していることがありますよね?」
「え?」
斉木さんの黒目がちの大きな瞳が、驚きで見開かれる。
彼女のその驚きの中、微かに恐れや怯えが混じっているのを、私は見逃さなかった。それで確信する。
――斉木亜美は黒だ。彼女は私たちに隠れて瀬野と会っていたに違いない。
別段三宅を疑ってはいなかったが、彼女の態度からもそう読み取れる。
「聞こえませんでしたか? 我々に隠していることがありますよね、と。そう訊ねています」
「…………」
斉木さんはハッとして、縋るように三宅を見た。三宅は素知らぬ顔で彼女に一瞥を返しただけだ。
「答えて下さい、斉木さん」
「あ、ありません」
認めるしかないだろうと思ったのに――意外にも、彼女は長い髪を振り乱して首を横に振った。
「だ、第一、意味が分かりません。一体、何を隠すって言うんです?」
「それはあなたが一番よく分かっているんじゃないですか?」
「私が……?」
「往生際が悪いです。あなたが察した通り、三宅が全部教えてくれましたから」
私が冷ややかに言い放つと、三宅はデスクに置いた爪先をトンと蹴って、キャスターの付いた椅子から立ち上がる。
「そーゆーコトだから、ゴメンね」
「三宅くん……!」
三宅は「宿題見せて」な軽いノリで拝んで見せた。すると斉木さんの顔色が露骨に青ざめる。
「『Camelliaを通さずに男性会員のお客様と会うのは禁じられている筈。それを知らなかったとは言わせません。
登録の際、送られてきたメールはご覧になりましたよね? 『警告』の欄に書かれていたこと、覚えています?」
「…………」
きっと彼女は今、記憶の片隅にある文面を必死になって追い掛けているところなのだろう。
そして、そこにはこう書かれていた筈だ。
警告 : 以下のルールを厳守頂けなかった場合、『Club Camellia』を退会して頂く場合が御座います
1 会員であるお客様と個人的に連絡を取ってはならない
2 会員であるお客様と『Club Camellia』を介さずに会ってはいけない
3 会員サイトを介さずに料金交渉をしてはならない
4 その他『Club Camellia』の評判を貶める行為はしてはならない
「どうです、思い出して頂けました?」
彼女には十分心当たりがあるようだった。そして、私たちが彼女に何を告げようとしているのかも。
「……それは、退会しなければいけないってこと、ですか?」
「そう受け取って頂いて構いません」
斉木さんが掠れた声で尋ねると、私はわざと意地悪く笑いながら続けた。
「――まあもし仮に、止むに止まれぬ事情があるというなら、教えて頂きたいところではありますけど」
そんなものあるワケない。皮肉のつもりで言ってやった言葉だった――のだけど。
「ごめんなさい、あの――……私っ……」
斉木さんの美しい顔が悲痛に歪み、彼女の肩が小刻みに震えだす。突然、泣き出したのだ。
私だけでなく、三宅も、鳴沢も、そして神藤も、予想していなかった出来事だったんじゃないだろうか。
「ごめんなさいっ……い、いけないことって、分かってました――で、でも……せ、瀬野さんがっ……瀬野さんがどうしてもって、言うので……」
時折苦しそうな呼吸を挟みながら、彼女が続ける。
「かっ……『Camellia』の規約のことも、勿論、お話しました。だけど、瀬野さんは『大丈夫だ』の一点張りで……。
拒むならこれから先、もう私を指名しないとまで言い出して……!」
白魚のような細い手で顔を覆ってしまう斉木さん。
美人の涙というのは惚れ惚れする。言葉もままならない中、必死に訴えかける彼女の姿は、誰がどう見たって悲劇のヒロイン。
私は無言で三宅、鳴沢、神藤、と順に様子を窺ってみる。
程度の差はあれどヤツらは皆、斉木さんの涙にたじろいでいるようだった。
……男っていうのは本当に単純。こういう美人の嘘を直ぐに信用するんだから。
まあ、私だって――例のことを確かめていなければ、彼女の言い分を信じてしまったかもしれないけど。
「三宅たちは騙せても、私のことは騙せませんよ?」
「……?」
ただ一人私が、黒い睫毛を濡らす涙にも動じず言ってのけると、斉木さんの瞳が揺れる。
「とぼけたって無駄です。私、実は昨日、瀬野さん本人から事情を伺ってるんですよ。
斉木さん――あなた、芸能プロダクションへの口利きを条件に、瀬野さんと愛人契約していたんですってね?」
「!」
動揺からか斉木さんが、顔を覆っていた手を胸の前でぎゅっと組む。その手は微かに震えていた。
「瀬野が一番恐れているのは、政治家としての自分の地位を脅かす事象です。『Camellia』はそのうちの一つ。
正直に教えて下さいとお願いしたら、そんなようなお返事がきましたよ」
昨日、私が日付を変わってまで粘っていたのは、瀬野からのメールを待ち続けていたから。
斉木さんが瀬野と密会している証拠を押さえたかった。そのために私は、megの名を使って彼と連絡を取っていたのだ。
彼の方もトラブルを恐れ、私が望む通りの返答を送ってくれたというワケ。
「あなたがそういう世界に興味があるタイプだなんて、ちょっと意外でしたけどね」
『そういう仕事したらいいのに。ボクは芸能関係の知り合いもいるんだよ。いつでも紹介してあげる』
彼女の初めての仕事でも、そんな話がチラっと出たのを覚えている。
乗り気じゃなさそうに見えたのだけど――その実、機会を耽々と狙っていたとは。何て狡賢い女だろう。
でも言われてみれば、頷ける点があったか。神藤と一緒にプロフィール写真を撮ったときのことを思い出してみる。
斉木さんは実にナチュラルにモデル然とした動きをしていた。あれはやはり、経験あってこそだったんじゃないだろうか。
「……何が悪いんです?」
裏が取れていると知り、抗う術を無くした彼女は、スイッチを切り替えたように涙を引っ込め、真剣な表情になる。
顔立ちが端整ゆえに真顔はちょっと怖くて、妙に気迫があった。
「一体、何が悪いっていうの? 私は、自分が利用できるものを利用したに過ぎない。『Camellia』も、瀬野さんも――自分の身体も」
「規約違反は強制退会の対象になると、先ほども申し上げましたが」
彼女の悪びれないサバサバとした受け答えに圧されそうになるも、負けじと言い返す。
「そんなことをして困るのは『Camellia』の方なんじゃないですか?」
自分の価値を理解している女の言い分には説得力があった。淡々とした口調ながら、その言葉は皮膚を貫き、肉に食い込んでくるような鋭さがある。
「――三宅くん、言ってたでしょ? 今の『Camellia』には私の存在が欠かせないって」
「……あ、あァ、言ったけど」
彼女が三宅に問いかけると、彼女の変貌ぶりに動揺している様子の彼が、たたらを踏んで答える。
私もだけど、彼女にもっと控えめで儚げなイメージを持っていたからだ。鳴沢だって、神藤だって――此処に居る全員がそうだろう。
斉木さんは滑らかな口調で切り出した。
「確かに私は規約違反を犯しました。それは申し訳ないと思ってます。でも私は、欲しいものは何でも諦めたくないんです。
将来の夢や、そのために必要なお金、後ろ盾になってくれる人も。手に入れられる状況だったらそうしたい。
瀬野さんは『Camellia』の大切なお客様ですが、私に指名を下さるお客様は、彼以外にもたくさんいらっしゃいます。
『また会いたい』と仰り、実際に指名を下さるお客様が多いのは、『Camellia』の方であればご存知ですよね?」
「……はい」
私はしぶしぶ頷く。仰る通り、斉木さん――ユリカの人気ぶりは半端ない。
彼女を求めているのが瀬野だけではないというのも当然ながら知っている。
「『Camellia』のため、ほんの少しの我儘を許して頂きたいと思うのは、いけないことなのでしょうか?」
彼女は、自分が客に求められ、評価されていることを知っている。
知っているからこそ――瀬野と切れるつもりはない、そして『Camellia』でも働き続けたいと、ムシのいいことを堂々と言ってのけるのだ。
「あなたは自分の立場が分かっていますか? いかなる理由があろうと規約違反はタブーなんです。例外は認められません」
物事に貪欲であったり、自分の欲しいものを欲しいと主張するのは悪いことではない。
だけど郷に入ったら郷に従え、だ。『Camellia』に入会した以上、最低限、そのルールには従って貰わないといけない。
「私、他の女の子の会員とは繋がってませんし、瀬野さん以外の『Camellia』のお客様とも連絡を取るつもりはありませんから、
これ以上『Camellia』にご迷惑は掛けません。それに、水上さんだって――」
不意に彼女が微笑った。ローズピンクのリップを塗った唇が三日月型の弧を描く。
「水上さんだって、『Camellia』に係わっていることが表立ったりしたら困るんじゃないですか?」
彼女が何を言い出したのか分からなかった。一瞬の空白の後、やっとのことで理解する。
「斉木さん、あなたもしかして――私を脅しているつもり?」
「いえ? そういうわけじゃないですけど……私、まだまだ『Camellia』で稼ぎたいんですよ。途中で見捨てるなんて酷いじゃないですか」
見掛けによらず、恐ろしい女だ。今までこんな風に切り返してくる女子生徒は一人もいなかった。
斉木さんはすっかり会話の主導権を握った様子で続けた。
「だから、水上さんからmegさんに口利きして欲しいんです。私を辞めさせないように、と」
「私が、megに?」
「三宅くんの話だと、水上さんの意見が一番通るってことでしたから。……バレたくないですよね? 川崎センセにだけは」
「!?」
斉木さんが意味深に声を潜めて言った。……どうしてそこに川崎センセの名前が出てくるの?
身体中がバラバラになってしまいそうな衝撃を受け、目の前が真っ暗になる。
「亜美チャン、その話は――!」
それを聞きつけた三宅が「しまった」という顔をして、直ぐに遮る。
三宅? 三宅が何を知ってるというの?
「ああ、ごめんなさい。……とにかく、互いの利害が一致してるんですから。ね、三宅くん。三宅くんも私に辞めて欲しくないって、そう言ってくれたよね?」
「あ――あァ、ま……うん」
三宅は私と彼女とを見比べながら、控えめに返事をした。
頭が混乱する。え、これ、どういうことなの?
こんな展開、全然想像してなかった。視線の先で勝ち誇った顔をしている美少女が、途端に得体の知れない化け物のように思えてくる。
言い表せない不快感と共に、心臓の音が加速する。
『ふふっ、確かに、川崎センセはセンセっぽくない所が魅力だからなぁ』
『気付かなかったんですか、ふふ、可愛い』
そう――あのときみたいに。
斉木さんは最初からそうやって私の存在を脅かし、揺さぶってくる。だから邪魔だと――嫌いだと感じてしまうのだ。
彼女に対して抱いていた劣等感が急速に膨らんでいく。私は斉木さんみたいに可愛くないし、華やかでもない。それに――
『あぁ、斉木はいい意味で高校生っぽくないもんな』
『「スーツの方が絶対似合うから、たまには教師らしい恰好でもしたら」って。生意気だよなあ』
羨ましいほど、川崎センセと打ち解けている。
……ああ、そうか。やっと分かった。
胃の上側がムカムカするこの感じは、私が斉木さんに対して勝手に抱いている、ただの嫉妬だったんだ。
『Camellia』で斉木さんを利用しているつもりでいながら、やっぱり、彼女が羨ましかったんだろう。
だって私には勝てるところが一つもないんだから。
それでも負けたくない。負けを認めたくないのだ。
認めてしまえば――私が今まで必死になって守ってきたものが、音を立てて崩れてしまう気がして。
「お願いします。水上さんの方から、megさんに頼んで頂けないでしょうか?」
斉木さんはもう一度、今度は少ししなを作って訴えかけてくる。
そうやって、何でも自分の意のままになると思ったら大間違いだ。
私はあなたに屈したりしないし、私の管理下にある『Camellia』で好き勝手もさせない。
私を――そして『Camellia』の存在をも脅かそうとしたことを後悔させてやるんだ。
すうっと息を吸い込むと、私は小さなため息を吐いてから宣言した。
「三宅、鳴沢、神藤――『退会の儀式』、始めるよ」
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