Scene.5-4




 『川崎センセに知られちゃったら、色んな意味で危険じゃないですか? あのセンセ、正義感が強いから、こんなの絶対見過ごせないでしょうし』

 このタイミングで川崎センセから電話があるなんて。これは偶然? それとも――……。

「……わかりました」

 私は震える声でそう答えていた。

「わかりました。今から向かいますので」

「悪いな。……待ってるから」

「はい。失礼します」

 通話を終わらせ、携帯電話をしまった。

「……ごめん。ちょっと、出てくる」

「何かあったのか?」

 訊ねたのは鳴沢だった。彼らにも事情を話すべきだろうか。

 ……いや。よした方がいい。川崎センセがどういうつもりで私を呼び出したのか、その真意を掴むまでは。

「ううん。多分、すぐ戻ってくるから――神藤、鳴沢。そこの二人の様子、ちゃんと見届けるんだよ。私の代わりにね」

「は、はいっ」

「……わかった」

 逆らえるはずのない幹部の二人が、順に頷いた。

 蹂躙の様子を拝見できないのは残念だけど仕方がない。鳴沢はともかくとして、神藤は私の言いつけを従順に守るヤツだ。

 代わりにじっくりと見届けてもらい、ひとまずセンセのところへ向かわなければ。

「三宅、先に童貞喪失おめでとうって言っとくよ。せいぜい斉木さんを満足させてあげるんだね」

「わかってますって」

 これから大人の階段を上る三宅にそう言葉をかけてやると、ヤツも心得たとばかりに頷いた。

 施錠を解いて教室を出た私は、駆け足で屋上まで向かった。

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 屋上は五階にある。携帯を片手に階段を駆け上がり、屋上に続く引き戸に手を掛けた。

 うちの高校は学園ドラマの中のそれとは違い、屋上へは生徒が自由に出入りできなくて、いつも施錠されている。はずだった。

「…………?」

 扉は容易く開いた。微かにオレンジ色を帯びた空と、私をこの場に呼び出した人物の姿が視界に飛び込んでくる。

「おー。水上。早かったな」

 七分丈のグレーのパーカーにジーンズ、という普段通りのラフな格好で、待ち構えていた川崎センセが片手を挙げた。

「川崎センセ」

 彼の名を呼んで、扉を閉める。

「悪いな。急がせたみたいで」

「いいえ、そんなことは……」

「息、切れてる」

 そう指摘して、センセが楽しそうに笑った。

「急にこんなところへ呼び出して、ごめんな」

「いえ。……屋上、久しぶりに来ました。授業で一度入って以来です」

 それは確か地学だった。何かを観測する課題を与えられたときに――詳しくは覚えていないけど。

「だよな。生徒が勝手に入れないようになってるから」

 言いながら、彼はゆっくりと前方に進み出た。

 そして屋上を囲むように取り付けられた緑色のフェンスに左手を掛け、その手首に填ったスポーツウォッチに目をやる。

「――水上に話があるんだ。でも電話じゃなくて、直接、顔を見ながらしたい話だったから」

 世間話もそこそこに、センセはすぐに本題を切りだす。

「……ど、どんな話、なんですかね」

 一体何を告げられるのだろう――という不安でいっぱいになる。私は彼の後を追いながら、平静を装って言った。

「…………」

 センセは暫らく、何か言いたそうに私の顔をじっと見ていた。

 何の感情にも染まっていない、淡々とした表情で。

  『川崎センセに知られちゃったら、色んな意味で危険じゃないですか? あのセンセ、正義感が強いから、こんなの絶対見過ごせないでしょうし』

 暑いワケでもないのに、額から汗が噴き出る。やっぱりそういうことなの?

 斉木さんが川崎センセに『Camellia』のこと打ち明けていたのだとしたら――こうして私を呼びだす理由は一つしかない。

 彼は、私が裏で『Camellia』に係わっているという事実を掴んだのだ。

 どうする? どうしたらいい?

 考えなきゃ、ラブホテルでの一件と同じように。……そうだよ、あのときだって何だかんだで切り抜けることが出来たじゃないか。

 まずはセンセが何を――そしてそれを何処まで把握しているのかを、確認しないことには……。

「……ごめんな、水上」

「えっ?」

 ところが。……漸くセンセの口から告げられたのは、予想外にも謝罪のフレーズだった。

 フェンスに掛けた手を下ろし、私へと向き直る。

「ちゃんと、直接謝らないとって思ってたんだ。でも、遅くなって悪かったよ」

「……謝る?」

「俺さ、この間、酔っ払って水上に情けないメール送っちゃったろ。それで、水上のこと煩わせたんじゃないかと思って」

「……な」

 な――なんだ……そういう話。

「おい、どうした?」

 身体の力が抜ける。無意識のうちに張り詰めていた緊張がふっと解けて、気分的には地面にへたり込みたかった。

「あ、いえ」

 その衝動を堪えて首を横に振ると、改めてセンセの顔を見つめた。

「次の日、よくよく考えてみて……やっぱ、生徒の水上に迷惑掛けたのはよくなかったなって、猛反省したんだ。

それで、ちゃんと謝らないとなーと思ってるうちに、日にちが経っちゃってさ。他人に聞かれるのも何だし、ここへ呼びだしたってワケ」

「そんなの、全然気にしてませんよ」

「とは言うけどさ、どー考えたって非常識だろ。酔っ払った教師が生徒に恋愛の愚痴を垂れるなんて。カッコ悪いし」

「そんなことないです」

 私はきっぱりと答えた。非常識だとか、カッコ悪いとか、そんな風には思ってない。寧ろ逆だ。

「そのときも言ったじゃないですか。私、川崎センセの役に立ちたかったんです。……センセにはお世話になったし」

「……水上」

「だから、センセが反省する必要なんてありません」

 センセが私に恋愛の悩みを打ち明けてくれたのは、私に恋愛感情がないからこそだってわかってる。

 それでも嬉しかったんだ。川崎センセが自分の悩みを吐きだしてくれて。

 そうしてくれることで、その他大勢の生徒っていう括りから、一歩前に進めたような気がした。

 ……たとえそれが私の勘違いだとしても。

「本当、いい奴だよな、水上は」

 川崎センセは小さくため息を吐いてから、しみじみと呟く。

「おだてないで下さいよ、センセ」

「おだててるワケじゃないよ。本音を言っただけだ。……何か、水上と話してるのって心地いいんだよな。こう、波長が合うっていうかさ」

「波長、ですか?」

「うん。上手く言えないけど、話してて楽なんだ。だからつい弱音を聞いて欲しくなったのかな」

「……斉木さんは」

「え、斉木?」

 センセが虚を衝かれた顔をしたので、慌てて首を横に振る。

「……いえ、何でもありません」

 やだな、私ったら。斉木さんの名前を出して、一体何を訊こうとしていたのだろう?

 「斉木さんとも波長が合うんですか?」とか、「斉木さんにも弱音を吐くことがあるんですか?」とか?

 比べたって仕方がないのに。たとえ私にだけそういう感情を持ってくれているのだとして、だからどうなるというのだ。
 
「…………」

 センセはさっきみたいに何を言うでもなく、ただ私の様子を窺っていた。

 間がまた緊張感を生む。センセは、電話の件を謝るために私を呼び出したんじゃないの?

 やっぱり、他に理由が……?

「なあ、水上」

「は、はい」

「最初に言ったけどさ、水上だって、話したいこととか相談したいことがあるなら、いつだって俺を頼ってくれていいんだからな?」

 見つめ返すのが怖いくらいに、真摯な瞳で彼が言う。

「頼りないかもしれないけど、水上は俺の大切な生徒だし――その、ちゃんと導いてやりたいと思う。

だから、不安に思うことがあれば、俺に何でも話してくれ」

「大丈夫ですよ、センセ。いろいろご迷惑かけちゃいましたけど、今は気持ちも落ち着きましたから――」

「じゃあ約束してくれ。何か心配事や悩み事ができたら、俺に相談してくれるって」

「……はい。約束します」

 私はしっかりと頷いて、頭を下げた。

 『川崎センセに知られちゃったら、色んな意味で危険じゃないですか? あのセンセ、正義感が強いから、こんなの絶対見過ごせないでしょうし』

 ――何か引っ掛かる気がしてしまうのは、私の性格のせい。きっと、そう。

 あれは斉木さんの脅しに過ぎなかったんだ。まだセンセは何も勘付いていない。

 厚意を利用してるみたいで、罪悪感を覚えないわけじゃないけど……私、やっぱり川崎センセが好きだ。

 物事を穿って見てしまう私にはない、とてもキラキラしたものを、彼は持っている。だから惹かれるんだ。

 バレてないって確信が持てたら、気が抜けた。私の想いは彼には見せまいと思っているのに、ありがたい言葉を掛けてもらうとついつい顔が綻んでしまう。

 滅多に踏み入ることのない屋上。センセと二人きり。

 本当なら、もう少しこの場に留まっていたいところだけど――

「……すみません、私、用事があるので。そろそろ失礼しますね」

 後ろ髪を引かれながらすまなそうに切りだすと、センセはまた腕時計に目を落とした。

「あ、ああ……わかった。わざわざ来てくれてありがとうな」

「いえ。……では、さようなら、センセ」

「気を付けて帰れよ」

 ひらりと手を振るセンセに背を向け、私は四人の待つコンピューター室へと戻った。

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 扉を開けると、三宅の脱童貞パーティーはもう終了したみたいだった。

「おっ、水上」

「水上さん」

 教卓のあたりに幹部の三人が固まり、何やら言葉を交わしていたけれど、私が戻ったことを知り中断し、こちらを向いた。

 目のやり場に困るような格好をしていた三宅が、普段のそれに戻っていてホッとした。

 教室を見回すと、ほぼ全裸だった斉木さんも綺麗に服を着直し、血色の悪い顔で少し離れた窓際の席に座っている。

「どう、三宅。無事童貞は捨てれたんでしょうね?」

 開口一番に訊ねてやると、三宅はニッと調子のいい笑みを浮かべてブイサインをする。

「ふうん。よかったじゃない。おめでとう」

 感情の籠らない声で言ってやると、「おかげさまで」と返ってきた。本当、私のおかげなんだから深く感謝して欲しい。

教卓の前を通過し、斉木さんのもとへと向かう。

「お疲れ様です、斉木さん」

「…………」

 彼女は視線だけで返事をする。もう口を利く気力もないのかもしれない。

「乱暴をしてすみませんでした。でも、これでわかったでしょう? 『Camellia』は貴女がどうこうできる組織じゃない。

ここは大人しく引き下がって、退会するべきです。それが貴女の未来のためなんですから」

「…………」

「――でも、そうですね。これまでの貴女の貢献を讃えて……退会金という形で、最後にお礼をさせてください。

それでお互い、気持ちよく忘れましょう。それで宜しいですか?」

 斉木さんの瞳が揺れた。私の申し出に心が動いたというサイン。

 これで話が纏まると確信した私は、そっと彼女の手を取って、握手をする。

「今までありがとうございました。あなたが『Camellia』のことを口外しない限り、今日の出来事も写真も、一切外には洩れません。ご安心ください」

「退会金ってマジ? 水上太っ腹ー」

 三宅がひゅうっと口笛を吹いたので、教卓の方を見遣る。神藤も少し驚いた表情をしている。

「……どういう風の吹きまわしだよ。急に退会金だなんて。それこそ特別扱いじゃないか」

 怪訝そうに呟いたのは鳴沢。

「彼女は特別扱いに値するって言ったのは鳴沢でしょ。これで円満に縁が切れるなら最善じゃない」

 抑えられないほど抱いていた斉木さんへの反発心が、いつの間にか薄れていた。

 屋上での出来事を経て、もしかしたら生徒の中で川崎センセと一番近い距離にいるのは私なんじゃないか――

 そういう心の余裕が、私に正常な判断力を取り戻させたのかもしれない。

「…………」

 鳴沢はそれきり、口を閉ざしてしまった。

「ということで……それで構いませんね、斉木さん?」

 彼女は虚ろな表情ながらも、微かに頷いた。

 交渉成立。これで一件落着だ。……明日から、またいつも通り『Camellia』の運営だけに力を注げるはず。

 そんな私の気持ちを打ち砕いたのは――予想もしていなかった角度からの、裏切り、だった。