Scene.5-6




「おー。お疲れ――」

 腕時計の短針がぴったり7の上を指したころ。

 304号室のインターホンを押すと、先に到着していた三宅が扉を開け、私達二人を迎え入れる。

「――ってか何ナニ。お二人サン、一緒だったワケ?」

 そして、私の後ろに、依然もじもじと落ち着きなさを見せる神藤を見つけると、珍しいとばかりに目を瞠った。

「まさかのデート?」

 無言で短い廊下を抜けて行こうとした私の肩を叩いて、三宅が訊ねる。

「あるわけないでしょ、そんなの」

 っていうかあってたまるか。冗談か本気か判断つきかねるトーンの三宅を振り払い、部屋の中に入る。

 この304には初めて来た。『splash』の部屋は可愛い系の内装が多いのだけど、ここはいかにもラブホな感じのデザイン。

 鏡張りの壁に、真っ赤なソファと絨毯。ダブルベッドのシーツが真っ白なため、コントラストが効いていて目に眩しい。

 私は入ってすぐのラブソファに腰を下ろして、廊下側の三宅を軽く睨んだ。

「デスよねー」

 流石にその可能性はないかと納得した三宅が笑って、

「じゃ、どーしたの?」

 と、私と神藤が二人仲良く登場という事実を面白がっているようだった。

「知らない。私が知りたいくらいだよ」

 三宅越しに、まだ扉の近くで靴を揃えている神藤の背中に向かって言葉を投げると、ヤツのその肩がびくりと揺れた。

「シゴトまで付き合って欲しいとか言っておいて、結局何がしたかったんだか」

「……神藤が、水上を呼び出したってこと?」

 三宅も倣うように扉の方に身体を向けた。私達の視線を浴びた神藤が、恐る恐るといった調子で振り返る。

「いえ……あの……」

 その顔面は蒼白だった。蚊のなくような声を絞り出す唇が、微かに震えている。

「なによその顔。具合でも悪いの?」

「い、いえ……そ、そういうワケじゃ……あの、なんでも、ない、です」

「なんでもないって、血の気ない顔をしてるのに?」

 信憑性のある顔色ではないのだけれど、私が探ってみても神藤は頑なに首を横に振る。

「――なァ、神藤、水上に何かヨケーなコト言ったの?」

「ひっ……」

 私に背を向けた三宅が、いやにゆっくり、一歩一歩、扉側へと近づいていく。

 そして、神藤の黒い短髪を乱暴に掴んで、静かに問うた。

「余計なことって何よ」

「なァ、言ったの?」

 私の問いかけに答えず、三宅が掴んだ頭髪を揺らして催促する。

 三宅を見つめる神藤の目は、たった今オオカミに喰い殺されそうになっている小動物のそれのようだった。

 最後の抵抗、とばかりに、ヤツはふるふると小刻みに首を振って見せる。

「何イジメてんのよ、三宅」

 三宅はチャラいけど不良と違って暴力を振るうところは見たことないし、そこそこ神藤と仲良くやってると思ってたから、ついつい口を挟んでしまった。

「い、いえっ……ぼ、僕、は、言って、ませ……」

「……そ。ならいーけど」

 回答を聞き届けると、「ゴメンネ」なんておちゃらけて言いながら手を放した。

 あーあ。神藤、半分泣いてるじゃん。余程精神的にキたんじゃないだろうか。

「ってか、余計なことって何よ、三宅」

「神藤、機械の準備始めろよォ」

「はっ、はいっ……」

 三宅は私の問いかけをスルーして、神藤にセッティングを促す。

 眦に涙を溜めた神藤は、制服の袖口でそれを拭うと、脇に置いていた自分の荷物を持って、早足で室内にやってくる。

「無視しないでくれる」

「べっつにィー、無視なんてしてないケド。……コッチの話だから」

 再びこちらを振り返って、ニコッと胡散臭い笑みを浮かべた三宅も、神藤の後を追って部屋に入り、私の隣に腰を下ろした。

「……ってか狭いんだけど。ベッドの方とか行けばよくない?」

 ラブソファはミニサイズで、大人が二人掛けると嫌でも密着してしまう大きさ。

 躊躇なく私に身体を寄せる三宅に嫌悪感を覚え、私はつい苛立った口調で、向かい側のベッドを指差す。

「いーじゃん。オレ、水上とくっつきたい気分」

「私は生憎そんな気分じゃないから」

 三宅がつけているフレグランスの香りが、いつもより強く香る位置。

 そう知覚するや否や、反射的にヤツの身体を両手で押し返す。

「童貞卒業したからって、調子に乗らないでくれる」

 コンプレックスを解消したせいで、気が大きくなっているんだろうか。

 一度、押し倒して来たのを怒って以来、この手の冗談は避けるようになったはずなのに。

「そーゆーつもりじゃナイのに」

 なんて言って見せているけど、顔は半笑いだ。どこまでも欲求の塊だな、コイツは。

 気持ち、身体を退いて座り直した三宅が、ふと思い出したように訊ねる。

「そーいや水上はさァ、いつ処女捨てたの?」

「…………」

「ね、いつ? そンで、相手はダレ?」

「ど、どうだっていいじゃん、そんなの」

 野次馬よろしく二の矢、三の矢を放ってくるのがウザったい。

 ――答えられるわけない。鉄壁の防御で男を寄せ付けない、この私が。

「もしかして、今付き合ってるカレシ?」

「……カレシ? ああ」

 誰のことかと疑問を覚えつつ――そういえば、以前『Camellia』の幹部会議をしているときに届いた川崎センセからのメールを、

 カレシからだと勘違いされていたっけ、と思い至る。

「ノーコメント。女性にそういうこと軽々しく訊いてるようじゃ、精神的にはまだまだ童貞だよ」

 性的な欲求なんてまだ感じたことないし、してみたいと思ったことも更々ないけど。

 その相手が川崎センセなら……時間を掛けて、受け入れられるのかもしれないなあ。

 なんて。きっと、センセは私なんか相手にしてくれないに決まってるのに。

「キビシーなァ、水上ってば――でも」

 三宅は、額を押さえるようなジェスチャーをしたあと、すぐにその手を下ろした。

「イロイロ大変なんじゃね? 障害のあるレンアイって、さ」

「……?」

 嘘を吐いていた後ろめたさから何となく三宅から逸らしていた視線を、改めてヤツに向ける。

 三宅は薄く笑みを湛えた口元を、思わせぶりに歪めている。

 まるで――『オレは知っている』とでも言いたげに。

「な――何の、話」

「あ、逆なのかなァ。障害があればその分燃えちゃうってパターン?」

「だ、だから何の話?」

 そのとき、外扉をノックする音が割って入った。

「さァて、鳴沢が到着したかなァ――」

 三宅は扉の方を一瞥してから立ち上がり、そちらへと緩慢に歩いていく。

 私は涼しい顔を作りながら、内心では動揺でいっぱいだった。

 
『イロイロ大変なんじゃね? 障害のあるレンアイって、さ』

 三宅の吐いたセリフが頭の中でぐるぐると渦を巻いている。

 障害のある恋愛って――それじゃ、まるで、私の相手が対等な関係じゃないって知ってるみたい。

 私と川崎センセは決して恋人同士じゃないけど、少なくとも私が誰を想っているか――コイツは、知っているっていうの?

「鳴沢到着〜」

 歌うように戻ってくる三宅の後ろから、鳴沢が現れる。

 ――落ち着いて。今は平然と過ごすのが得策だ。

 変に態度に出してしまったら、三宅だけじゃなく、鳴沢や神藤にまで変だと思われちゃう。

「ねえ鳴沢、塾は大丈夫なの?」

 自分に言い聞かせつつ、着いたばかりの彼にそう投げかける。

 毎週この日のこの時間は、塾の講義があると言っていたはず。

 だから今日、鳴沢も『隣で待機』に入るというのを、不思議に思っていたのだ。

「今日は休んだ。かわりに、今まで自習室にいたんだ」

「わざわざ休んだの? 普段通り私たちに任せればよかったのに」

 盗聴や盗撮のセッティングをする神藤を除いては、そのときスケジュールの空いた人間が来ればいいということになっている。

 塾なら塾だと言ってくれれば、私だって無理強いはしない。

「今日は鳴沢がいないとオハナシにならないからさァ」

 答えたのは鳴沢ではなく三宅。

「どうしてよ。私と神藤だけで『待機』してることだってあるでしょ」

「そーだけど、今日はトクベツってコト」

「はあ?」

 至極楽しそうに話す三宅の意図が分からなくて、眉を顰める。

「別に何だっていいけど――ねえ神藤、準備できた?」

「あ、は、はい……その、も、もう少し」

 奥の壁際で背中を丸くしながら作業していた神藤に声を掛けると、ビクッと震えて答えた。

「まだなの?」

「す、すみませんっ……」

 神藤にしては手際が悪いな。毎回ちゃちゃっと終わらせるくせに。

 腕時計で時刻を確認してみると、午後七時十五分。もう隣の部屋で客がスタンバっててもおかしくない時間だ。

「もうそろそろ女の子だって来ちゃうかもよ。タラタラしないで」

「その心配は不要だよ」

「……? 何言ってんの、不要なワケ――」

 気がつけば鳴沢と三宅、二人がラブソファを取り囲むように私を見下ろしている。

「聞こえなかった? その心配は不要だって、そう言ったんだけど」

 そう繰り返す鳴沢の瞳は、何処となく冷たい感じがした。

「そゆコト。だって今日、シゴトなんて入ってないんだからさ」

 鳴沢にすかさず相槌を打ったのは三宅。

 え? シゴトが、入ってない……?

「だって、『隣で待機』って……」

「そンなの、水上をおびき出す口実に決まってるでしょ?」

「こう、じつ?」

「まァさか、何でオレたちに呼び出されたのか、全く心当たりナイなんてコトはナイよねェ?」

 三宅の口調は、クラスメイトと話すような緩いものなのに、どうしてだろう。

 この場に、とてつもない緊張感が走っているように感じられるのは。

「何のこと? あんたたちと特別話したいことなんて、何一つないけど」

 私はソファから立ちあがり、二人を交互に見てから、再び口を開いた。

「あんたたちが何をしたいのか、私にはさっぱりわからない。とにかく、用事がないなら帰るから。……半日、無駄にしちゃったじゃん」

 馬鹿馬鹿しい。

 私をからかいたいのか、驚かせたいのかは知らないけど、そんな下らないことに時間を使うほど、私たちは暇じゃないはずだ。

「まァ待てって」

 スクールバッグを拾い、二人の間をすり抜け外扉へと向かおうとしたところ。

 三宅が私の手首を掴んた。

「っ……!」

 手首の骨が軋むんじゃないかと思うほどの、結構な力だ。痛みについ吐息が漏れる。

 私の動きが止まると、三宅はすぐにその手を解放した。

「じゃ言いかえるわ。水上に用事がなくてもさァ、オレたちにはあるの」

 振り返った視線の先、三宅と鳴沢が顔を見合わせ、目配せをしている。

「――神藤。もういいぜェ」

 三宅が神藤に合図らしき声を掛ける。
 
 何がもういいのだろう。

「は、はい……ではもう、映しますっ」
 
 奥の壁際を向く神藤に視線を向けると、ヤツはノートパソコンを弄っているところだった。

 私の位置からは、神藤のパソコンのディスプレイに映っているものを覗き見ることができる。そこに映っていたのは――

「……!」

 赤い絨毯に赤いベッド。鏡張りの壁。そして、私の腕を掴む三宅、その傍に立つ鳴沢。

 ――紛れもなく、この部屋。304号室だ。

「今更驚くことないだろう。普段は隣の部屋にセットしてあるものを、今日はこの部屋に置いただけだ」

 映像から推察して、部屋を見回す。

 すると、鳴沢の言う通り、壁に埋め込まれた大きなテレビの隙間に、ネットワークカメラが仕込んであった。

「神藤のパソコンで録画してるから、コレで今日のことは記録に残るってワケ」

「何これ……な、何の真似なの!?」

 驚きや動揺が先行していた感情が、すぐに苛立ちや怒りにとって代わる。

 ありもしないシゴトをでっち上げ、欺かれていたこともそう。私に断りもなく一体何をしようというのか。

「……何の真似、だって。それはこっちが聞きたいよ。水上」

 責めるような鳴沢の台詞が重たく響く。

「オレたちに隠れて川崎センセとイチャイチャしちゃってさァ。何なの、ホント」

 畳み掛ける三宅の言葉が、更に追い打ちをかけた。

 ……やっぱり、三宅は知っていた。私が川崎センセと連絡を取り続けてるってことを。

「べ、別に、イチャイチャしてなんかないよ。私はただ、川崎センセからパトロールの情報とか聞き出せたらって――」

「フーン。じゃどーしてセンセからのメールを隠したりするの? やましくないなら、誰とメールしてるとか、正直にオレらに言えるはずっしょ?」

 あのとき……緊急会議のとき。

 携帯のウインドウに映ったセンセの名前を見られずに済んだと思っていたけど――コイツはちゃっかり目にしていたのか。

「……別に、隠してなんか」

 言いながら、しまったと思った。三宅は誤解しているのだ。

 .そして、川崎センセの間にあらぬ疑いを掛けられては困ると思う気持ちが裏目に出てしまったと知る。

「オレたちだって始めはさ、うまい具合に川崎センセを利用してんのかと思ってたよ。

でもさ、川崎センセと仲良い亜美チャンへの態度とか、明らかに嫉妬剥き出しじゃん? 

水上、もしかしてセンセに惚れちゃったンじゃないかーって心配になったワケさ」

 「なァ」と鳴沢に同意を求める三宅。鳴沢は微かに頷いた。

「水上が、誰よりも熱心に川崎センセの授業を受けていたのは、皆知ってるよ。昼休みに国語科に通っていたこともね。

僕に古文の点数を上げたいって言ってきたりもして……理系なのにどうしてそこまで一生懸命なんだろうって、疑問に思ってはいた」

「…………」

「川崎センセとはいつから? 付き合ってるんだろう? 『Camellia』のことはどうやって打ち明けたんだ?

……まさか僕たちだけのせいにして、自分は責任を逃れようなんて思ってたりしないよな?」

「学校バレしたときはオレらだけに罪をなすり付けようって魂胆だったりして? 『Camellia』の運営は水上主導だってのに、そりゃーナイよなァ。」

 そうか。そういうこと。

 やっとわかった。つまりコイツらは、私に不信感を持っているのか。

 私が川崎センセにのめり込んで――彼に嫌われたくないがために、コイツら三人が悪いみたいに収めようとしているんじゃないかって。

「悪いけど、そんな気ないよ。川崎センセには『Camellia』のことは言ってないし、そもそもセンセと付き合ったりしてない」

「そー簡単には信じらンないよねー」

 三宅が間延びした声で言って、苦笑いする。

「亜美チャンへの水上の態度、スゴかったもンなー。ありゃ誰が見てもカワイソウだわな。

百歩譲って付き合ってないとしてもだよ、あの反応は異常だよイジョー。

オレたちがドン退きしてても、それにすら気づかないくらい――川崎センセにムチュウってか?」

「っ……」

 三宅の言う通り、不安と嫉妬のあまり斉木さんを退会に追い込んだのは、やりすぎだったかもしれない。

 それがコイツらの不信感を煽ったというのならそうなのだろう。でも――

「言いがかりもたいがいにして」

 ここで少しでも怯んでしまったら、この先もずっとナメられる。私は強気に言い返した。

「私が誰と付き合おうが、それをあんたたちにとやかく言われる筋合いなんてないの。

それでもあんたたちは、私に従わなきゃいけない理由がある。あんたたちを黙らせるとっておきの切り札があるってこと、忘れてないでしょうね」

「もちろん、覚えてるよ」

「でもさ、オレら気づいちゃったのよ。目には目をって言葉もあることだしさー、だったらコッチも水上の弱みを握っちゃえばいーじゃんって」

 どくん、と心臓が嫌な音を立てた。

「え……?」

「そしたらオレら、皆対等だもンな。――神藤、中の扉閉めて」

「は、はいっ」

 三宅に命じられた神藤が、怯えた顔をしながら廊下と繋がる中扉を閉めにやってくる。

「お前、しばらくソコで見張ってな」

 神藤に扉の番をさせたのは、私をこの部屋から出さないため――逃がさないためだ。

 そう気づいた瞬間「一秒でも早くここから脱出しなければ」という衝動に駆られる。

 震える足で一歩踏み出したのと同時、今度は鳴沢に腕を引かれ、ダブルベッドの上に突き飛ばされた。

「痛っ……! ちょっと、鳴沢――」

 乱暴な所作を非難しながら、うつぶせに倒れた身体を起こして彼を振り返ると、背筋がゾクっとした。

 私を淡々を見下ろす瞳に、何かギラギラしたものが混じっている。

 こんな鳴沢の顔、知らない。見たことがない。

「鳴沢、気持ちが焦るからってさァ、もっと優しくしてあげたらいーのに。そンなんじゃ、トラウマになっちゃうよ?

処女ソウシツはオンナノコの大切な記憶だっていうし、もっと丁寧に扱ってあげないと」

 三宅の笑い声が、鏡張りの煌びやかな部屋に響く。

 鳴沢が私の上に覆いかぶさってきたのは、そのあとだった。