Scene.2-4
「――よし、じゃあ今日の授業はここまでだ。次までに各自ノートを纏めて来ること。いいな?」
三、四限の授業が終わると、一週間の最後の一コマだからか、束の間の開放感にため息を洩らす生徒達がたくさん居た。
そんな彼らを掻き分けて、教卓でチョークケースの中身を整理している川崎センセの姿を捕まえる。
「川崎センセ、今ちょっといいですか」
「はいはい、どうした、水上? 昨日の予習は役に立ったか?」
相変わらず優しく人懐っこい笑顔で迎えてくれるセンセからは、いつも清潔感のあるいい香りがする。
センセは海が好きなこともあり、そのつながりで同じ名前を持つフレグランスをつけているのだと聞いたことがある。きっとその香りだ。
「はい、勿論。やっぱり昨日のうちに聞いておいてよかったです」
「そうか。水上みたいにきちんと予習してきてくれる子ばっかりなら、教える方も楽なんだけどなぁー」
川崎センセは、程よく焼けた腕を組んで、うーんと唸った。
意外かもしれないが、ペーパーテストの点数は良くても、その都度のテキスト予習はしてこない生徒もいる。
そういう子は他の教科や塾の予習に必死なのか、それとも追い込まれないと実力が発揮できないタイプなのか。
どちらにせよ、中間や期末、入試で学力を発揮すればいいのだから、その辺は自己責任なのだけど、
教える側からしたら常に頑張っていて欲しいと思うのだろう。
「……で、どうした? 質問か?」
「あ、はい。さっき説明して貰った六十一ページの四行目なんですけど……」
「なるほど、これはだな――――」
センセは手元にある使い込まれたテキストを広げながら、該当箇所を指差した。
私だって、教えて貰ってるのが川崎センセじゃなければ古文を優先して勉強したりはしない。
理系にとっては、その分他の教科に時間をあてた方が受験に有益だからだ。
なのに……どうして私はこんなに頑張ってるんだろう?
予習をみっちりやったり、授業後に毎回、わざわざ質問しに行ったり。
先生として川崎センセのことが好きだから?
そのあたりを深く考えた事はない。
理屈じゃなく、根拠もなく、私の感覚で……川崎センセは他の男の人とは少し違うかもって。そういう期待を持っているのは確かだ。
でも、だからどうというワケじゃないはずなのに、どうして昨日は、センセの女性の好みに拘ったんだろうか。
別に私と全く違った女性を求めていても、何の不満もないと言うのに。
だってセンセと私の関係は、いわゆる男と女っていうモノじゃないし――……。
「水上?」
センセに文法を解説して貰いつつも、その内容は全く頭に入っていなかった。
心ここにあらずな私の顔を、心配するようにセンセが覗き込んでくる。
彼が纏うフレグランスが強く香るほど――極近い距離で。
「……!」
その出来事は同時に、一昨日、三宅に冗談半分でベッドに沈められたことを思い起こさせて、
私は反射的に、極端とも呼べる仕草で身体を引いていた。
情けない話だけど、ビックリしてしまった……免疫が無さ過ぎて。
次の瞬間、私は咄嗟に取ってしまった行動を後悔した。センセは何の気無しにしたことだろうに、と。
「どうした、大丈夫か?」
「あ……」
「お前、今ボンヤリしてたぞ。勉強を頑張るのもいいけど、適度に休み取ってるか?」
「……は、はい。大丈夫です」
幸いにも、センセは全く気にしていない様子だった。寧ろ、私を気遣ってくれている。
「それならいいんだけど。受験前に疲れないようにな」
テキストを閉じて、チョークケースと一緒に抱えると、彼はにこやかな表情のまま教室を出て行った。
……何やってんだろ、私。
川崎センセに失礼な事をしてしまった気がする――あぁ、それもこれも、三宅のせいだ。三宅の。
そりゃ、多少は、男性に縁の無い私の所為もあるけどさ。
複雑な気持ちのまま自分の席に戻り、帰り支度をしていると、私の席の前で歩を止める人物がいた。
バッグの中を掻き分ける手を止めて、その人物をちらりと見遣る。
「鳴沢」
どうしたの、という意味を込めて彼の名を呼んだ。
「水上、何かあったのか?」
「何のこと?」
怪訝な表情の彼へ私がそう聞き返すと、いや、と言葉を濁してから、
「様子が少し変だったから」
鳴沢も同じ教室に居たのだから見ていたんだ。やはり、傍目から見ても不自然だったんだろう。
「ううん、ちょっと最近勉強しすぎでさ。ボンヤリしちゃって」
「……そう。それならいいけど」
私がひらりと手を振ると、鳴沢はいつものポーカーフェイスに戻る。
鳴沢って、意外と周りを気にしているんだな。
基本姿勢が『人は人』なのかと思いきや、流石イイコ仲間。侮れない。
「それより、今日のことなんだけど、他の二人は来るって?」
「うん。そうみたいよ」
なるべく外で『Camellia』の情報は出したくない。私が短い言葉で答えると、鳴沢は納得したように頷いた。
「じゃあ、僕は塾に行くから。後は宜しくな」
「わかった」
そう言うと、鳴沢は外へ流れて行く他の生徒に紛れ教室から出て行った。
同級生達は今の授業が一週間の締め括りかもしれないが、私にはあともう一仕事残っている。
私は携帯を開いて時間を確認すると、今朝届いた鳴沢からのメールをもう一度読み返した。
――――――――――――
送信者 : 鳴沢啓斗
件名 : 今日の詳細 ―――――――――――― 本文 :
今日は20時〜、『Rose』の
402と403を押さえてある。
ユリカ指名で客は例のお得
意様で瀬野って政治家。
じゃあ時間になったらよろし
く。 ―――――END―――――
今日のシゴトは20時開始か。まだかなり時間が空いている。
とりあえずは図書室で自習でもしようかと考えながら、スクールバッグを肩に掛けた。
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「あと三十分かー、スッゲー楽しみなんだけど!」
成陵近くのラブホテル『Rose』の一室、いやにハイテンションな三宅がダブルベッドで足をジタバタさせている。
パトロールに遭遇しないよう、周囲を確認しつつ公衆トイレで私服に着替えてきたおかげもあり、
心配していたようなことは何も無く、無事入室することができた。
三宅の言葉につられ、携帯を開いて時刻を確認すると午後七時三十六分……シゴトの時間まで三十分を切った。
「カワイイ亜美ちゃんの喘ぎ声聞き放題、って?」
私がラブソファ一面を陣取るような、偉そうな座り方をしながら言った。
どうしてこの男はこのラブホという空間だけで興奮できるのか。いや、今回は亜美ちゃんだから余計、なのか。
「そうそう、あんな美少女のナマ声って貴重じゃん? ぜってーAVとかより興奮するって!」
「……」
本当にコイツは、とウンザリした。
そう、これから『Camellia』期待の新人、斉木亜美ちゃんの初シゴトが始まるということで、三宅はやたら張り切ってしまっているのだ。
「神藤、お前、ちゃんとセッティングしろよ。何だかんだであと二十分くらいしかねーンだからな」
三宅がそう言ったので、私も、壁際でコソコソと準備をしているだろう神藤の姿を見遣った。
―――と。
「あれ、神藤。パソコンなんて何に使うの?」
いつもの盗聴器とスピーカーに加えて、神藤は何故かノートパソコンと小さなカードリッジのようなものを持って来ていた。
「……三宅くん、運がよければ前言ってたこと、実現できそうです」
「ハァ? 前言ってたこと……?」
神藤の言葉に三宅は心当たりがないようで、きょとんとした表情を浮かべた。
しかし、直ぐに記憶を取り戻したのか、
「あー! もしかして昨日言ってたことか! 偉いっ、神藤、お前超偉いぞっ」
三宅はベッドから飛び跳ねるように壁際までやってくると、相当嬉しいことでもあったのか、神藤の頭をわしわしっと撫で回した。
「何ソレ、どういうこと? 私、何も聞いてないんだけど」
彼らの間だけで成立している話に少し苛立ち、責めるように神藤を見た。
「あ、いや……実は今日は、試してみたいことがあって……」
テンションがMAXになった三宅のせいで、崩れた髪形の神藤がすまなそうに私の顔色を窺っている。
「何を?」
「えっと……盗聴っていうと、音でしか情報が入ってこないじゃないですか。当たり前ですけど」
「うん、わかる。それで?」
「三宅くんに、それだとちょっと寂しいって言われてたので……こう、映像も一緒に取り込めないかな、と考えてて……」
「そーそー。で、今日、もしかしたら実現できるかもってワケ」
音だけでなく、映像も一緒に。つまり、それって……。
「盗撮、ってこと……?」
「まぁ平たく言えばそーゆーコトだな」
何を努力したワケでもない三宅が得意げに言った。
「え、でもどうやって? 盗撮って、リアルタイムじゃ難しいんじゃない?」
「それが……一応方法があるんです。ただ、僕らが部屋にカメラを設置する手段がないので、斉木さんにも協力して貰わなきゃいけないんですけど」
神藤の説明だと、どうやらこういうことらしい。
予め三宅経由で斉木さんに初期設定済みの小型ネットワークカメラを渡しておく。
そして当日のシゴト前、相手がシャワーを浴びている時等を見計らって、
ベッド一面が映りこむようなところ――たとえばテレビの上なんかにカメラをセットしてもらう。
そうするだけで、神藤持参のパソコンから、カメラが映し出す様子をリアルタイムで見ることができるというのだ。
私たちは、パソコンの画面を見るだけ。以上。
「でも、流石に動画っていうと斉木さんも抵抗あるんじゃないの? よくOKしたね」
声を聞かれるのも恥ずかしいけど、ハダカを撮られるのはもっと恥ずかしいと思うのに。
「いや……それが」
「あー、だって亜美チャンには言ってないもん。カメラのこと、盗聴器だって言ってあるから」
「………」
そういうことか。全く、こいつらときたら……。
しかしカメラってことはレンズが付いてるだろうに。気付くだろ。よくもまぁ騙されるもんだ……。
「あの、だから、もし斉木さんがうっかり忘れて、とか、警戒してカメラを付けなかったときは、映像は見れないことになるんですけど」
今、いつも使用している盗聴器をセットしているのは、カメラが使えなかった時のための保険らしい。
「もし今回のカメラが上手く行けば、カメラから音も拾えるので、盗聴器は必要なくなります」
「ふーん……なるほどね」
そう私に説明している間も、神藤はパソコンの電源を入れて着々と準備に入っている。
「カメラの取り付けって難しいの?」
「いや、置くだけなんで……そんなに難しいことは無いと思います」
そうか。ちゃんと映りそうなら、これから先はカメラを使うのもいいのかもしれない。
「あーホンキで楽しくなってきたー。もしかしたら亜美チャンのカラダにお目にかかれるかもしれないンだろー!」
安全措置の一環だというのに、利己的に楽しもうとする三宅がいちいちウザったい。
「あのねえ、『隣で待機』の目的、忘れないでよ。亜美チャンのカラダもいいけど、無事を確認するのが目的なんだから」
「わーかってるって。ンなカタいコト言わないでいーじゃん。何、ヤいてンの?」
三宅がからかうような視線を私に向ける。
「はぁ? どうして私が妬かなきゃいけないのよ。意味わかんない」
「オレが亜美ちゃん亜美ちゃんって言ってるのが気に食わないとか? あれ、実は水上、オレのコト好きだった?」
「バカも休み休み言ってよ。私はアンタみたいな口だけ達者な童貞は死んでもお断りだって言ったでしょ」
「ちょっ、口だけってのは置いとくにしても、ドーテーって言うなよォ。オレのガラスのピュアハートはだな―――」
「あ、映った!」
私と三宅が不毛な言い争いをしていると、神藤が普段出さないようなハッキリとした声音で小さく叫んだ。
と、私も三宅も、その声がするや否や神藤のパソコンの前に群がる。
画面には、カメラの視点でたった今設置しただろう斉木さんの上半身と手のひらが映りこんでいる。
「よし! 上手くいったじゃん」
「ってことは、もう客も来てるワケね?」
「はい、多分……」
神藤が頷きながら、パソコンから聞こえてくる音声を確認し、
「カメラから音届いてるんで、スピーカーをパソコンに繋ぎなおしますね」
と、手早く視聴環境を整えていく。
「オレの心の準備はもう出来てるぜ! あー、マジ、オレがドキドキしてるンだけど!」
生き生きとした表情の三宅とは対照的に、画面に映る斉木さんの顔は不安なのか落ち着かないのを見て、
これが売る側の性と買う側の性の心情の違いなのか。と思う。
あまりにも象徴的な光景に見え、私だけ妙に白けてしまった。
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