Scene.4-5
「もう本当に、消えてしまいたい……」
その日の放課後、私はピアノを前にして重苦しい空気を纏っていた。
「まーだそンなこと言ってンの? しつこいよ芽衣センセ」
「だって……! 私のせいで、私のせいでっ……」
傍で事も無げに椎名君が言うのを、首をぶんぶんと勢いよく振って否定する。
「『高遠怜・退職の危機――密告者は同僚女性教師』って?」
「椎名君! 気にしてるんだから、いじめないでよ……」
週刊誌のアオリのような台詞に大きなため息をついて、私はピアノの蓋の上に突っ伏した。
あぁ本当、消えたい。申し訳なさ過ぎるよ……。
真琴ちゃんと仲直りが出来たあと彼女から聞いた現況は、想像を遥かに超えていた。
なんと、私が校長先生に告げ口したことによって、高遠先生が自ら教師を辞めると言い出したみたいなのだ。
「だから芽衣センセが気にする必要ないじゃン。元々悪いのは怜なンだろ」
椎名君は、私が掛けているピアノの椅子の背もたれに手を付き、私の背後から口を尖らせて言った。
彼は、私がウジウジとこの話を三、四回ループして話しているため、知りたくなくてもおおよその事は把握してしまったようだ。
「インガオウホウ、ってヤツ。まさかアイツが真琴センセを――ねぇ……」
「大丈夫かな……本当に高遠先生、辞めちゃうのかな……」
「辞めたとしても怜のせいなンだから、仕方ないだろ」
「でも……!」
軽い抗議のつもりで、顔だけ後ろを振り返ってみる。
「真琴センセが『どうにかする』って言ってたンだろ。じゃ、真琴センセに任せてみたらいいじゃン?」
椎名君は面倒そうな所作ながら、顔を少しだけ近づけて、囁くように言った。
「………」
確かにあの時――高遠先生が、教師を辞める気でいると聞いた時。
「……もう校長先生の耳に入ってしまってるんでしょ? ……それじゃあ……」
折角、真琴ちゃんと高遠先生の気持ちが通じかけているのに――私のせいで……。
自分がやったことの重大さは痛感していたけれど、こういう事実に直面して足が震えてしまう。
「――私だって、こんな、ワケ解んないまま高遠に辞められても気分悪いだけだから、辞めさせるワケにはいかない」
「けど……」
「できるのよ、私には」
真琴ちゃんは、いつもの凛とした口調で言った。
「え?」
「高遠を、辞めさせないことができるの――だから大丈夫。芽衣は、何も心配しなくていいよ」
「言ってたけど……真琴ちゃん、一体どうやって――」
「知らねーよ。つか、もう真琴センセの話は飽きたンですけどー」
いい加減、ウンザリした様子で椅子から手を離して、グランドピアノの周りをウロウロと歩き始める彼。
それに合わせて私も姿勢を戻し、ピアノ越しに彼を視線で追いつつ、
「だって、心配なんだもの。私のせいで真琴ちゃんと高遠先生が――」
「あーハイハイ、わかったわかった、だからもういいってその話」
「………」
気持ちが治まったわけではないけれど、これ以上続行したら椎名君の機嫌を悪くしそうな気がして。
私は、落ち着かない気持ちを紛らわせるために、ピアノの蓋を開けると、
曲を奏でるというよりは指を動かすことに没頭した。
白鍵を滑り、黒鍵を滑り、また白鍵を……確かなタッチで音を響かせる。
「『幻想即興曲』――ショパン?」
まるで、英語のスペルカードを読み上げるように条件反射で椎名君が訊ねる。
私は以前から気になっていたことを聞いてみたくなって、演奏の手を止めた。
「――椎名君は、意外とクラシックに詳しいのね」
「そー?」
「私が音楽室で弾く曲、毎回当ててくれるじゃない?」
「……そりゃあ」
彼は再び、私の傍まで戻ってきながら、
「オレと、オレの好きな人を繋いでくれるモノだから」
彼は椅子に掛ける私の顔を、上からじっと見据えた。
『――言ったよね?オレ、センセが好きだって』
以前、此処で見つめられたあの真剣な眼差しと同じ。
そんな目で見られたら、また――ドキドキしてしまう。
「で、でもっ、それって――どういう……」
「心当たり、ない?」
「………」
少しの逡巡のあと。首を横に振った。
すると、彼はとても冷めた顔をして、盛大にため息を吐いてみせる。
「あー、そうだよなー。どーせ、芽衣センセにとっては些細なことだったンだよなー」
「えぇ!? 何、どういうこと……?」
「別にいーよ、忘れてンなら」
「そ、そんなこと言わないで……せ、せめてヒントだけでも」
私は何か大事なことを忘れてるんじゃないか――そんな思いで、縋る様に椎名君に訊ねる。
彼はくるりと私に背を向けつつ、呟きのトーンで、
「去年の始業式の日」
とだけ言った。
去年の始業式の日――記憶の糸を辿るように、私はその日のことを振り返った。
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去年の始業式の日、それは私の、教師として初めての出勤日だった。
だから、忘れるわけがない。
式の挨拶を終え、緊張でガチガチだった私は音楽室へと向かった。
私の第一の使命は、前任の先生が纏めて下さった授業内容を把握すること。
成陵は進学校だと聞いていたから、専門的な勉強が必要になるのは音大を志望するほんの一握りの生徒だけ。
その部分だけは安心材料ではあった。
にしても、全校の音楽を私が受け持つのだから――ううん、最初から分かっていたことだけど、
元々人付き合いというか、コミュニケーション能力に自信のない私にとっては不安の固まりでいっぱいだった。
だから、その気持ちを打ち消し、自分自身を勇気付けるためにもピアノに触れておきたかった。
大好きなピアノは普段の私へ戻してくれる、心の安定剤のようなもの。
そして、音楽の美しさ、楽しさを生徒に感じて欲しくて、教師になったということを思い出すためにも――。
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「始業式を終えて、音楽室に行ったわ。それで、ピアノを弾いていたの」
「何の曲?」
矢継ぎ早に椎名君が訊いた。
「確か――あ、今と同じ。ショパンの『幻想即興曲』」
指を早く動かす曲は、難易度は高いけれど私にとっては好都合だった。
それだけ、演奏に気持ちを没頭できるから。
「それで?」
更に彼が追及してくるのを、私は順を追って思い出していく。
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私が一心不乱に音を紡いでいると、音楽室の扉が開く音がした。
音楽室は防音効果が高いため、扉が開くと外の音が入ってくる。
既に下校を始めたクラスもある時間帯だったから、流れ込む空気の騒がしさで直ぐに気がついた。
「誰か、居るの?」
「失礼します。月島先生いらっしゃいますか?」
落ち着いた女の子の声がして、私は椅子から立ち上がり、扉の方まで歩いていった。
居たのは女子生徒が1人と、男子生徒が2人。
女の子はショートカットで真面目そうな委員長タイプの子で、
男の子は体格のしっかりしたスポーツマンタイプの子、そして黒縁の眼鏡が印象的な無口そうな子。
「すみません、私たち新聞委員なんですけど、校内新聞の取材で来ました。今お時間よろしいですか?」
「あ、はい、勿論。どうぞ」
私は彼女たちに、授業用の机が並んである方へと座るよう促した。その時。
「新任の先生がもう2人いるだろ、どうする?分担する?」
男の子の1人が、掛け時計をちらりと見ながら他の2人に声を潜める。
「んー、そうね、そうしましょ。じゃ、私は国語科に行ってくるから。ここよろしくね」
そう言いながら、女子生徒は眼鏡の男子生徒に使い捨てカメラを一つ渡す。
「僕は体育科に行ってくる。終わったら2-C集合な」
言うが早いか、締め切りが迫っている風な彼らは、私に一礼すると直ぐに音楽室から出て行ってしまった。
一瞬の出来事に、私は圧倒されてつい噴き出してしまう。
「……ごめんなさいね。でも、2人とも嵐のように去っていってしまったから」
笑い混じりに、取り残されてしまったらしい男子生徒へ謝ると、彼は極まり悪そうな様子で癖のない黒髪を掻いた。
「――で、取材って、どうしたらいいのかしら?」
そう訊ねてみると、男子生徒は小脇に抱えた紙袋から、クリアファイルに挟まったプリントを一枚出して、机の上に置いた。
「これを書けばいいの?」
問いに対して、コクンと頷くだけの男子生徒。
どうやら彼は他の二人と違って、取材に積極的ではないようだった。
まぁ、委員の中にはそういう子も居たっておかしくはない。
私は、ピアノの上のペンケースから、ボールペンを一本取り出すと、生徒用の机に掛けてプリントを手に取った。
質問内容は、血液型、誕生日、趣味など当たり障りのないもの。
それらを一つずつ埋めていきながら、何げ無く彼に話しかけた。
「あなたは何年生?」
「……二年」
大人しそうな外見とは裏腹、少し低めの掠れた声音にちょっと驚いた。
「新聞委員さん?」
「そう」
「記事とか書いたりするの好きなの?」
「……嫌い」
素直と言えば素直すぎる物言いだった。微妙な空気が流れるのを感じつつ、
「そこの項目に載ってない質問があるんですけど」
それが委員の仕事だからという風に、彼は自発的に私に話しかける。
「――『どうして、高校の教師になろうと思ったんですか?』」
いかにも国語の教科書を読み上げるような質問に、私は真面目に考え込んだ。
「なるほどね。うーん……そうね。月並みだけど、音楽の楽しさを、生徒の皆に知って欲しかったから、かな」
「ふーん……」
何故か、彼が不快そうに眼鏡の奥で目を細めた。
「……何?」
「音楽って、入試科目に無いじゃないですか」
「うん、そうだけど……」
「だからいまいちやる気になれないっていうか……単語の暗記も方程式も必要ない科目って、存在する意味がよくわからない」
「………」
これが、成陵の生徒が現実に考えていることなのだと、頭では分かっていた。
高校三年の終わりに控えた受験のために、彼らが日々プレッシャーに押しつぶされそうな日々を送っているのは知っていた。
でも、こう正面きって言われてしまうと――何だか、悲しい気持ちでいっぱいになる。
自分の科目を否定されたことじゃなくて、勉強をするためだけに学校に居るという、彼らの感覚に。
「確かに、音楽は入試科目には無いわ。それに、必ずしも取らなきゃいけない単位じゃない。
だけどね、だから音楽なんて下らないとか、役に立たないとか思わないで欲しいの」
「………」
意外そうな顔をしながら、彼は眼鏡越しに私をじっと見ていた。
「好きな曲、素晴らしいと思う曲を聞いた時、あなたの心は何かを感じるはずよ。それは高揚だったり、
癒しだったり、感銘だったり、人や曲によってそれぞれだと思うわ。そういった経験を重ねていくと、豊かな感覚を持った人間になれる。
勉強も勿論大切だけれど、優秀な生徒の皆だからこそ、厚みのある人間になって欲しいの」
「………」
半信半疑といった様子の彼を見て、私は、じゃあ、と立ち上がる。
「実際に、感じてみればいいと思うわ」
ピアノの前に座ると、つい先程まで奏でていた幻想即興曲を、再度、弾くことにする。
繰り返される三連符を正確に叩き、低音から高音まで指を滑らせていく。
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「……新聞委員の子達が来て、校内新聞の取材を受けたわ」
「それで?」
「ピアノを……今の曲を弾いたの。そしたら――」
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彼は、まるで手品でも見ているような顔をしてそれを見ていた。
数あるピアノ演奏曲の中でも、難易度が高い名曲。
私もショパンのCDで初めてこの曲に出会った時の衝撃は、忘れられないから、
おそらく彼も今同じ気持ちでいるのだろう。
演奏を終えて、もう一度彼の方へと視線を向ける。
「――本当は、ちゃんとしたピアニストの演奏を聴くのがいいんだけどね」
そう笑いかけたのだけど、彼はまだ目を瞠っていた。
「………すごい」
眼鏡のフレームの位置を正しながら、彼が呟く。
レンズの向こうにある彼の瞳は、心なしか輝いているようにも見えた。
「クラシックって普段は聴かない?」
彼は静かに頷く。
「そう。でもクラシックじゃなくたっていいのよ。何か他の――」
「家に居るときは勉強してないと、家族が煩いから」
私の言葉を遮るように、そう言う彼。
「ご両親は、厳しい方々なの?」
「ご両親っていうか――家庭全体がそういうフンイキで」
「……そう。」
成陵では、まったく珍しくない話なのだろう。
それが悪というわけではないと思うけれど、
彼の曇った表情から、本人にとってはあまりいい環境ではないことが理解できた。
私が何を言っていいのか、掛ける言葉を捜していると、
「あの」
と、逆に彼のほうから問いかけてきた。
「今の曲、何て言うんですか?」
「ショパンの、幻想即興曲。素敵な曲でしょう? あ、よかったら、CD聞いてみて」
椅子から立ち上がり、傍らのCDラックからショパンの名曲集と名のつくアルバムを引き抜くと、彼の元へと戻ってくる。
「はい、これ。返すのはいつでも大丈夫だから」
少しだけ迷った所作を見せながらも、彼はゆっくりと手を伸ばし、名作曲家の顔が大きく入ったCDを手にした。
「……どうも」
「どういたしまして」
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「――気に入ってくれたみたいで、そのままCDを貸したかな」
「で、そのCDって返ってきた?」
「ううん、帰ってきてないと思う。でも私物だったし、戻ってこなくてもいいつもりで渡したから」
「なンで?」
不思議だとばかりに椎名君が訊ねる。
「たった一枚のCDで、あの彼が音楽に興味持ってくれたら、別にいいかなって思って」
切迫した環境であろう彼の心に、少しでも余裕のようなものができるのなら。
そしてそれが音楽だったなら。そう考えれば、特に気にはならなかった。
「でもソイツ、音楽じゃなくて、芽衣センセの方に興味持っちゃったかもよ?」
「もう……からかわないでよ」
「いや、マジで」
「……?」
いつもの軽口かと思ったけれど、椎名君は緩く首を振って続けた。
「勉強漬けの毎日で、家も学校もウンザリだった。けど――あの日、芽衣センセのピアノを聴いて気持ちが変わったンだ」
「え……?」
まるで自分自身のことのように語りだす彼を、私はただ不思議に思っていた。
だって――それって……。
「まだわかンない?」
椎名君は苦笑しながら身体を屈めて、傍らに置いていたスクールバッグに手を遣った。
もう3年目の付き合いだからか、それともあまり丁寧に扱っていないからなのか、
かなり使い込んだスクールバッグから出てきたのは―――。
「これ……」
「長いことドーモ」
ゆっくりと私の目の前に差し出されたのは、作曲家の写真がジャケットになっている一枚のCD。
それは、一年前に私があの眼鏡の子に貸した、ショパンのアルバムだった。
そこで漸く――あの時の男子生徒が、椎名君の姿と重なった。
「でもまさか、貸したことすら忘れられてたとは思わなかったけど」
「だ、だって……」
私はそのCDを受け取りつつも、慌てたように言葉を紡ぐ。
「わ、忘れてたワケじゃないのよ?ただ、去年は教師生活最初の1年間だったわけだし、
慣れないことでいろいろ忙しかったし……余裕も、ないし」
「だから忘れてたンだろ?」
「ち、ちが……」
不機嫌に嘆息する椎名君にフォローすればするほど、裏目に出てしまう。
「そ、そもそも!椎名君、一年前と全然違うじゃない!」
「違うって何が?」
「雰囲気とか、口調とか――あの頃の貴方は、もっと大人しそうだった」
見た目は、と付け加えそうになったけれど、あえて口には出さなかった。
すると、彼は予測どおりと言わんばかりに小さく笑った。
「芽衣センセが言ったンじゃん。豊かな感覚を持った厚みのあるニンゲンになれって」
「え?」
「芽衣センセと話をして、もっと色んなコトに興味持っていいンだって気づけたンだ。
だから好きなコトは何でもするようになったし、親とか出来のいい兄貴のコトもそンなに気にしなくなった」
「……ええ?」
……つまり。
あの大人しそうだった男子生徒が、遅刻回数学年ナンバー1の不良生徒になってしまったのは。
私がよかれと思って貸したこのCDが原因だったと、そういうこと……?
少しでも気持ちに余裕が出来れば、という私の気持ちを、
もっと自由に――いろんな意味で――やっていいんだって、彼が履き違えたって……。
CDを握る手が妙に冷たくなっていくのを感じながら、サァーっと頭から血の気が引いていく感覚にとらわれる。
「わ、わ、私はね、ハメを外すとか、そういうつもりで音楽を聴いてほしかったんじゃなくて――」
そんな私の状態を知ってか知らずか、でも、と椎名君が続けた。
「担任が芽衣センセに決まってから、芽衣センセを困らせようと思ったのは、わざと」
「こ、困らせるって――」
悪戯っぽい目元で笑う彼に、流石に私も口調を荒げようとした時。
「……今度はオレのこと、ちゃんと覚えてほしかったから」
彼はそう言って、CDを握り締めたままの私の手を取った。
「芽衣センセにオレのコト、ちゃんと見てほしかったンだ」
囁く様な優しい声音――見たことがない彼の表情に心音がはねる。
切なげな、けれども真剣な眼差し。
それはどこか、叶わなかった想い人に似ていて――なんて言ったら、きっと怒られてしまうだろうけれど。
今の彼は『自分のクラスの男子生徒』ではなく、一人の男の人の顔、だった。
ずるい。そうやっていつも、不意にモードチェンジするんだから。
顔が紅潮するのを意識しつつ、彼は私の思考を読んだように、
「オレ、兄弟だからって、怜の替わりになれるとは思ってない。ていうかムリだって解ってる」
彼は取った手を彼自身の頬へと引き寄せながら続けた。
「でもだからこそ、怜じゃなく、オレを見てほしい。今はムリでも……いつか」
最後はハスキーな声音が更に掠れて響いた。
「椎名君……」
彼の気持ちが本物だということ、気がついてはいたけれど――。
こんなにまっすぐで実直な彼の姿は、教室でも、音楽室でも見たことがなくて。
どうしよう。心が、揺さぶられる。
私、今、椎名君にドキドキしてるの?
急激に体温が上昇するのを感じながら、彼はもう一方の手で私を抱きしめようと腰に手を回す。
私は―――その手を拒まなかった。
彼の存在が温かい。
今だけは、その温かさを感じていたくて、身体を預けた。
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