Scene.1-4



 『あの人』と会う週末までは待ち遠しく、酷く長く感じた。

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「ねえ、椎名くん……」

 夕暮れ時、となりで歩く『あの人』が、オレのシャツの袖口を軽く引っ張りながら、名前を小さく呼んだ。

 場所は、オレたちがよく出かける繁華街の、メイン通り。

 服屋やゲームセンター、ファストフード店などが雑多に並ぶそこの場所は、カップルで溢れ返っている。

「ン?」

 返事をして立ち止まり、身体を向けると、俯いた『あの人』は袖口から手を離し、控えめにオレの手を握ってくる。

 柄にもなく心臓が跳ねた。こんな風に彼女から触れてくるなんてこと、今までなかったのに。

「どしたの?」

 声が上ずったりしていないだろうか。内心ではドギマギしながら、平静を装って訊ねる。

「あの……ね。わ、私、平気だよ?」

 言いながら、『あの人』は俯けていた顔をゆっくりと上げる。

 紅潮した顔は、恥ずかしさに耐えているようで、心なしか唇が震えている。

「な、何が?」

 その表情を向けられただけで、オレの方が顔を真っ赤にしてしまいそうだった。

 可愛い。抱きしめたくなるくらいに。

「その……椎名くん、わ、私のこと、好きだって言ってくれてるじゃない?

それなら、あの……私も、心の準備はできてるから……だから」

 オレの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。そして。

「……ふ、二人きりになれるところ……行こ?」

「!」

 突然何を言い出すかと思ったら。

 まさかのお誘いに、頭の中が真っ白になる。

 オクテでシャイな『あの人』の口からそんな思いきった台詞が出ることにも驚いたし、

 春先から辛抱強く訴え続けていた想いがやっと通じたのだということに対しても、また驚いた。

 それにしても……二人きりになれるところっていったら――その、アレしかない……よな?

「……いいの?」

 彼女から言い出したこととはいえ、まだ信じられない。

 顔を覗き込んで確認すると、『あの人』は微かにコクンと頷く。

 ……マジかよ。

「なら、行こう」

 彼女の気持ちが変わってしまわないうちに――と、オレは繋いだ手を引いて歩き始める。

 我ながらガツガツしているかとも思ったけど、どうしようもない。

 オレだってずっと触れたかったんだ。その度にいつも理性と闘って耐えてきたんだから。

 メインの通りを中に入り、さらに脇道に入っていけば、そういう施設はいっぱいある。

 その中の一つを選んで、過剰にキラキラした内装の部屋に辿り着いたオレたちは、扉を閉めるなり唇を重ねた。

「っ……」

 「二人きりになりたい」とは言ったものの、どうしたらいいのかわからずに固まってしまっている『あの人』の口腔を侵していく。

 実は、彼女とのキスはこれが初めてじゃない。彼女のファーストキスを奪ったのはオレだ。

 ついでに言うと、彼女の上半身までなら見たこともあるけど、それは黒歴史だ。……反省しているし、出来れば思い出したくない。

 あの日の出来事を上書きするつもりで、オレは努めて優しく彼女に触れることにした。

 キスしながら髪を撫で、首筋を撫で、胸の膨らみに辿り着く。

 すると、小さく彼女の身体が震える。緊張しているのだろう。

「――大丈夫。オレに任せて」

 唇を放して、彼女の耳元で囁きを落とす。

 余裕ぶった言い方だけど、本当はオレだってドキドキしている。

 何せ、一年以上も片想いしていた相手と、合意の上で結ばれるんだ。心が躍らないヤツなんていやしないだろう。

 淡いブルーのワンピースのシフォン生地越しに柔らかな胸の感触を楽しんでいると、『あの人』の呼吸はどんどん乱れてくる。

 それを必死で隠そうと、唇を噛んだりしているのがたまらなく可愛い。

 同時に、もっと乱れさせてやりたい――という欲望も膨らんでくる。

「スゲー可愛い」

 オレはもう一度彼女に口付けて、ワンピースの背中に手を回した。

 ファスナーを下ろして袖を抜くと、白いキャミソールが現れる。

「椎名くん……あのっ……」

「ン?」

 蚊のなくような小さな声で、彼女が主張する。

「ここ、ドアの前だから……ベッドに」

 『二人きりになれたからって、つい夢中になりすぎたか。

「ごめん、こっち」

 彼女の手を引き、部屋の中央にある豪奢なベッドへと導く。

 そして薔薇の模様のシーツの上に彼女を横たわらせると、それが再会の合図であるように、額に口付ける。

 キャミソールを脱がせると、白いレースのブラが覗く。

 少女っぽい雰囲気の『あの人』のイメージにはピッタリだと思った。よく似合っている。

「背中、少し浮かせてみせて」

「ん……」

 ブラのホックを外して取り払うと――白くすべらかな肌に二つの膨らみが露わになる。

「あんまり、見ないで……。恥ずかしい……」

 そういう彼女はちょっと泣きそうに、自分の上半身を手で覆い、身体全体を縮こまらせて隠そうとする。

「もっとよく見せて。キレイだから」

 胸の上の手をそっと退けて、その場所に直で触れる。

 やっぱり、柔らかい。こういうとき、女の身体って言うのは男のそれとは全く別物だなと思う。

「芽衣センセ――」

 興奮をかきたてられ、『あの人』の名前を呼ぶと――

「……『先生』は、やめて?」

 至近距離でオレを見上げる彼女が、そう言って小首を傾げる。

「今は……このときだけは、わ、私のこと……名前で呼んで。

先生と生徒じゃなく……椎名くんの恋人として、結ばれたいの……」

「っ―――」

 それまであまり、彼女を色っぽいタイプだと思ったことはなかったけど。

 上目遣いで、声を震わせながら言葉を紡ぐ彼女を見てるとゾクゾクした。

 この世で彼女と最初に結ばれるのは、オレなんだ。

 こんな『あの人』の姿を見ることができるのは、兄貴でも、他の誰でもなく、このオレなんだ――

「――芽衣」

 オレは堪らず、彼女を抱きしめて名前を呼んだ。

「芽衣、好きだよ」

「椎名くん、私も……」

 名前を呼ばれた彼女ははにかみながらも、何処からか聞こえてくるベルの音に交じって、そう応えてくれる。

 ……ん、ベル?

 おかしい。何でベルの音が聞こえてくるんだ……?

 ベルの音は、うるさすぎて耳がとれてしまうのではないかと思えるくらい、次第に大きくなっていく。

 ――ダメだ、本当に耳がやられる!

 危機感を覚えた瞬間、オレは目を覚ました。

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 まだ完全に夢の世界から戻り切れていない状態だった。

 あれ? オレは何で自分の部屋に居るんだ?

 てか、芽衣センセは? ここにいたはずじゃ――

 ついさっきまで『あの人』を抱きしめていた腕の中を見遣る。彼女の感触だと思っていたのは、枕だったようだ。

「…………」

 ――なんだよ、夢かよ。

 オレは苛立たしさから、壁に向かってその枕を投げた。

「……ガッカリさせやがって」

 オレは吐き捨てるように呟きながら、横でずっと鳴りっ放しだった携帯のアラームを止めた。

 ベルの正体はこれか。寝過ごしちゃいけないと思って、一番うるさそうな黒電話の音に設定していたから。

「やべ、起きないと」

 今日は待ちに待った、『あの人』とのデートの日だ。

 うっかり二度寝なんてしないように、オレは起き上がってクローゼットの前に積んだ着替えの中から下着を掴んだ。

「…………」

 ふと部屋着のスウェットの下――その中心部分に目が行く。

 ……そうだよな。オレの脳内ではリアルな出来事だったんだし、反応してしまったってしょうがない。

 あークソ! 無駄に期待させんな! どーすんだコレ。

 下半身の興奮が冷めるのを待ってから、オレはシャワーを浴びにバスルームへと向かった。

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 シャワーを浴び終えると、喉の渇きを覚えてキッチンに向かった。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注いで、また冷蔵庫に戻す。

「……?」

 そのとき、ボトル棚に見慣れない保存ビンが収納されていることに気がつく。

 よく麦茶とかを作って保存しておく、あの透明のビンのことだ。

 でも、中身は麦茶ではなさそうだ。それにしては色が濃すぎる。

「また真琴センセか……」

 考えられる理由はそれしかない。

 オレも兄も料理は一切しないし、コーヒーを除いて、ドリンク類は買うの一択だ。

 最近、兄の部屋以外にも真琴センセの領域が増え始めているように思う。

 ……別にいいけど。

 グラスの中身を飲み干していると、扉の音が聞こえた。追って、こちらに向かう足音がする。

「……起きてたのか」

 キッチンの扉から顔を覗かせて、意外そうに目を瞠る眼鏡の男は、上下黒のパジャマ姿。

 高遠 怜(たかとお りょう)――オレの実の兄貴であり、最大の敵だ。

「ン、まァな」

 端的に答えて、グラスをシンクに置いた。

「まだ八時半だぞ――珍しいな、お前が休みの日にこんなに早く起きるなんて」

「そのセリフ、そっくりそのまま返すわ」

 オレにしてみれば、怜が起きているほうがよっぽど不思議だ。

 『あの人』や真琴センセと同じく成陵高校で教鞭を握る怜は、学校でこそ品行方正、温厚篤実、眉目秀麗……と、

 三拍子揃ったパーフェクト教師だってことになってるけど、そんなイイコちゃん先生のコイツにも人並みに弱点はある。

 たとえば、ドのつく低血圧で、寝起きがメチャメチャ悪いとか。

 朝起きてから普段通りに活動できるまでそれなりの時間を要するから、普段から目覚ましは予定の一時間前に設定してあるらしい。

「ああ……夏期特別講座のプリントを作ってた」

「そりゃゴクローサマ」

 起きたんじゃなくて、徹夜したのか――と納得する。

 夏期特別講座っていうのは、夏休みに成陵の教師たちが受験生向けに自主的に開いている講座のことだ。

 もともとうちのガッコは、三年になると、大学のように自分の時間割を好きなように作成することができる。

 文系志望なら国英社、理系志望なら数英理……というように、自分に必要なものを必要な単位だけ取れる仕組みだ。

 特別講座は単位にはならないけど、三日間、決まった単元をみっちり網羅するもので、人気教師の講座は志望者が多く、抽選になったりする。

 この男の講座もその一つだ。「化学なら高遠の授業を取りたい」とみんなが口を揃えて言う。

 ちなみにオレも理系志望だけど、怜の授業は敢えて履修しなかった。

 弟のオレには特別厳しくしてくるだろうことはわかってたし、兄貴の授業を受けるっていうのは何か気持ち悪くて。

「真琴センセ、泊まってたンだろ? 起きてンの?」

「まだ寝てる」

「フーン」

 他人んちで爆睡とは、もうすっかり自分の家気分だな。神経の図太さに感心した。

「そうだ隼人」

「あ?」

 自分の部屋に戻ろうとしたところを、呼びとめられて振り返る。

「真琴が、冷蔵庫に作っておいたお茶を毎日飲めって」

「は?」

 さっきの保存ビンの中身のことだろうか。

「名前は忘れたけど、ストレスにいいお茶なんだと。勉強の合間に飲むといいらしい」

「……相変わらずのおせっかいだな、おたくの彼女」

 母親か、と思わず突っ込みたくなる。

「まあ、そう言うな。真琴なりにお前に気を遣ってるんだから……とにかく伝えたからな」

「ハイハイ」

 気のない返事で答えつつ、今度こそ自分の部屋に戻る。

 扉を閉めると、直前の怜の言葉がリフレインする。

 
『真琴なりにお前に気を遣ってるんだから』

「嬉しそうに話しちゃってさ」

 真琴センセと付き合い始めてから、怜は変わった。

 外でイイコを演じる分、家ではピリピリしていることが多かったけど、表情が大分柔らかくなったような気がする。

 そう考えると、真琴センセって凄いのかもしれない。

 大学時代に婚約までこぎつけた恋人にフラれ、そこで初めて人生の挫折を味わった――逆に、それまでが順風満帆過ぎたんだ――怜は、

 暫らく女が怖かったらしく、ずっとフリーだった。

 学歴はいいし、仕事も安定しているし、ルックスもいい。そして性格がいい――表面的には。

 そんな怜はいつだってモテていたけど、また同じ目に遭って傷つくのは嫌だったのだろう。

 『あの人』も、そんな怜に想いを寄せていたひとりだった。

 『あの人』が成陵に着任した去年の春からおよそ一年間の片想いも叶わず、怜は彼女の親友である真琴センセを選んだ。

 そのときはそのときで、三人の間にはいろいろあったみたいだけど、今も『あの人』と真琴センセは親友のまま。

 時折三人で食事をすることもあるらしく、良好な関係を築いている。

 『あの人』と怜が結ばれなかったのはありがたいと思いつつ……。

 真琴センセの出現によって、パーフェクトな怜に唯一欠けていた恋愛という要素が補完されてしまったことは、面白くなかった。

 血の繋がった肉親だし不幸になれとまでは思わないにしても、オレのたった十八年の人生の中でさえ、怜の弟じゃなければ……と思う瞬間は、何度もあったし、

 今でもそう思っているから。

 なんて、うっかり誰かに口にしてしまったら、「実のお兄さんをそんな風に思うなんて!」とか責められるんだろうな。

 で、大体次の台詞は予想がつく。「あんなに素敵なお兄さんの何が気に入らないの?」と。

 なら、十八年間アイツの弟をやってみろ――と、そういうヤツに言ってやりたい。

 遠目に見ているから、よく見えるんだ。実際、アイツの傍に居たっていいことなんかありゃしない。

「――はァ……」

 怜のことを考えていると気が滅入る。思わずため息を吐いた。

 ……つくづく捻くれているな、と自分が悲しくなるけど、やっぱりこんなオレにしたのは怜なんだから。仕方ない。

 てか、朝からテンション下げてる場合じゃないだろ。今日は『あの人』に会えるんだから。

 窓際に移動してカーテンを開け、外の天気を確認してみる。……うん、快晴だ。デート日和ってヤツだろう。

 待ち合わせは十一時に駅。まだまだ時間に余裕があるから、問題集でもやってから行くかな。

 オレはスウェットからTシャツとジーンズに着替えると、デスクの上に数学の問題集を開いた。