Scene.1-6



「椎名くん、もう少しだけ時間……あるのかな?」

 遅めの昼食を終えてカフェを出ると、彼女が控えめに訊ねる。

「うん。今日は一日ヘーキ」

「でも、あんまり遅くなると、勉強に差し支えちゃうよね」

 今日くらい、彼女のことだけを考えさせてほしいと思ったけど、口には出さなかった。

 面と向かってそんなキザな台詞を言うのは恥ずかしいし、やっぱり変に警戒されたくない。

「心配しなくてもいーンだって。センセが思ってる以上に、オレきちんと勉強してるから」

 寧ろ、こういう約束があるからこそ、勉強へのモチベーションが上がるっていうのに。

 彼女はきっと、オレが今日のこの日をどれだけ楽しみにしていたかなんて、知らないだろう。

 でもそれでいい。重たいと思われては逆効果だ。オレは軽い口調で言い、笑って見せる。

「そう……? えっと、じゃあ、もう少しだけ、ね」

 彼女の口元が少しだけ緩んだように感じる。

 ――この反応は、向こうももっと一緒に過ごしたいのだと思っていい……んだよな?

 ひとり相撲でないという手ごたえを感じつつ、オレたちは人の流れにのって繁華街のメインストリートに入っていった。

 午後のいい時間だからか、周囲には若いカップルの姿が目立つ。
 
 そういえば、今朝の夢に出てきたのはこの辺りだったような気がする。

 ――なんてことが頭を過ると、頬を紅潮させた彼女の顔が浮かんできたりして……。

「バカか、オレは」

 彼女に届かない声で自分を叱咤する。あんな夢を見るなんて、いくらなんでも欲望に忠実すぎるだろ。

「ねえ、椎名くん……」

 不意に彼女が俺を呼び止める。……しかも、オレのTシャツの袖口を摘んで。

「ン?」

 なんだこのデジャヴ――まるで今朝の夢をなぞっているみたいじゃないか。

 と思いつつ、俺はそのときと同じように立ち止まり、彼女のほうに身体を向けた。

「…………」

 彼女がオレのシャツの袖口からゆっくりと手を離した。

 恥ずかしそうに俯く彼女の顔を見つめながら、心臓が早鐘を打つ。

 もしかしてという思いが、オレの思考を満たしていく。

「どしたの?」

 急に喉がカラカラになるのを感じながら、夢と同じ台詞で訊ねる。

 ――まさか。まさか、この展開は。

「あの……ね。わ、私、平気だよ?」

「!」

 来た。

 夢は夢でしかないと思っていたけれど、その夢とほぼ一致する展開に動揺して、頭が真っ白になる。

「な、何が?」

 上ずった声でもう一度訊ねると、彼女は唇を震わせながら、意を決したように顔を上げてこう言った。

「その……私、我慢できるよ?」

「へ?」

 ……我慢? 何の?

「その……私、こうして椎名くんとたまに出かけたりさせてもらってるけど、今が椎名くんにとって大事な時期だって、ちゃんとわかってる。

だから――その、椎名くんは椎名くんの思う通りにして大丈夫だからね?

勉強に専念したいと思ったならそれがいいし、何となく誘わなきゃいけないっていう義務感は持たなくても平気だから」

「い、いや。そンなことナイって!」

 何だか夢と展開が違ってきた。

 このまま流れでアダルトな雰囲気に移行か――と思っていたのに。

 彼女は寂しげな表情を浮かべて、また俯いてしまう。

「さっきから言ってンじゃん。センセが思ってるよりも勉強してるって。そンな心配すンなよ」

「……でも、私、椎名くんの担任だもの。やっぱり、邪魔になってないかなって気になっちゃうよ」

「邪魔なワケない。ホントに!」

 いつもの、ネガティブで心配性な彼女の性格が顔を出す。

 でももう慣れたモンだ。こういうときは、不安がっている彼女を安心させる言葉を掛ければいい。

 オレは軽く咳払いをしてから続けた。

「――受験生だって、息抜きくらい必要じゃん? ……オレは、センセに息抜きさせてもらってンの」

「……そう?」

「だからさ、センセさえイヤじゃなければ――また息抜きさせてよ。気が向いたときでいーからさ」

「…………」

 彼女はちょっと考えるような素振りを見せてから、安堵したように微笑んで、頷く。

「――うん。ありがとう、椎名くん」

 ちょっと涙ぐんだりしているのが可愛い。

 この人、本当に二十五歳か。あまりにピュアな反応に、オレは思うままこう訊ねていた。

「……なら、また、デートしてくれる?」

 訊ねてから、ちょっと押しすぎたかなと後悔した。

 湧き上がる彼女への感情を堪え切れなかったとはいえ、もっとスローペースで彼女との関係を深めていければ、それで十分と思っていた。

 何だか、結論を急いているように聞こえないだろうか。 ――付き合ってくれ、と。

 期待半分、後悔半分で返事を待つ間が、妙に長く感じる。

 彼女は視線を彷徨わせ、逡巡してから、

「あ、う……うん、もちろんっ」

 と、快く応えてくれた。

 ――マジかよ。『うん』ってことは……またデートに誘っていいってこと、だよな?

 オレは、迸る喜びで鳥肌が立つのを感じた。

 彼女は、これまでの数々のアプローチから、オレの好意を十分に意識しているはずだ。

 なのにこんなにアッサリOKをくれるってことは――それはつまり、彼女もかなりオレに気を許してくれているということ。

 怜に対する気持ちを超えられたかどうかはわからないけど、そんなのはどうだっていい。

 現状超えられなくても、これから超えていけばいいんだ。

 ……とにかく、オレの想いは通じた。成就したと思って、構わないんだよな……?

「――よかった」

 オレは心からそう思って、呟いた。

 今朝の夢とは違った着地点に降りたけれど……一年三ヶ月の片想いが報われたように感じて、たまらなく嬉しい。

「……あの、じゃあ、椎名くん。もう少しだけお話しして、帰ろうか?」

「うん」

 興奮が冷めないまま、再び彼女と並んで歩き出す。

 これからもデートに誘って構わないということは、オレはついに彼女と付き合い始めたのだということ。

 身体も、心も――今、彼女と一番近い距離に存在しているのが、オレだ。

 ヤバい。これまで生きてきて、こんなに幸せだと思った瞬間はないかもしれない。

「きゃっ」

 そのとき、彼女の横を一台の自転車が走り抜けていく。

 自転車の勢いに驚いた彼女が、オレのほうに身体を寄せると――オレの指先に、彼女の、汗で少ししっとりした手の甲が当たる。

 ドキッとした。このまま、自転車から彼女を守る体で、手を繋いでしまうことができる、と。

 けれど――

 『や、めて……っや……だ……』

 オレの脳裏に、四月の終わりの出来事が通り過ぎていく。

 二人きりの音楽室。オレは、彼女に好きな男が居ると知って暴走し、堪らず彼女を押し倒した。

 ――心が叶わないなら、まずは身体だけでもオレのモノにしてしまおうとして。

 力任せに彼女の身体に触れた。初めて触れる彼女の肌は柔らかかったけれど、罪悪感のために、平静を保つのに精一杯。

 嬉しいという感情までは辿りつけなかった。

 
『―――高遠先生……』

 もしあのとき彼女が怜の――兄の名を呼ばなければ、そのまま、無理矢理想いを遂げてしまっていたかもしれない。

 そんなことになっていたら、彼女とプライベートで繁華街を歩くような機会も、得られなかったかもしれないんだ。

「――びっくりした。ここ、自転車禁止なのにね」

「あ、あァ。ケガとか、大丈夫?」

 オレは彼女の手を握ろうとした手を引っ込めて、気遣うだけに留めた。

「うん。ビックリしただけ。ありがとう」

 彼女はオレの顔を見上げて、優しい笑顔を浮かべてくれる。

 目の前の、この笑顔を壊したくないと思った。そして、彼女との関係も。

 あの出来事が、少なからず彼女の心に傷を残してしまっただろうことは明白だ。

 やっと手に入れた彼女の心を手放したくない――彼女に触れることで、彼女を失ってしまいそうな気がして、怖かったのだ。

「場所は、どうしようか? またカフェでもいい?」

 オレの思考を彼女が読めるはずもない。彼女は「何処がいいかな」なんて周囲を見回しながら訊ねてくる。

「うん、いーよ」

 焦る必要はないんだ。ゆっくり。ゆっくりでいい。

 いろいろあったけど、今は彼女もオレに気持ちを向けてくれている。

 こうして、オレたちはカフェのハシゴをして、日が暮れるころに別れた。