Scene.1-7



 真っ直ぐ家に帰るには惜しい気分だったから、駅前の本屋でデートの余韻を味わい、ついでに英語の問題集を一冊購入してから家路についた。

 まさか『あの人』が、オレを受け入れてくれるなんて――今日は最高の日だ。

 これで暫らくは、うっとおしい兄や兄の彼女に何を言われても、上機嫌でいられる。

 そう思って、マンションの部屋の鍵を開けた。

「…………」

 玄関のたたきに、ゴールドのTストラップサンダルが脱ぎっ放しで置いてあることに気がつく。

 ここのところ週に半分くらいの割合で現れるこのサンダルは、間違いなく真琴センセのものだ。

 今日もうちに泊まる気なんだろう。夏休みに入って、訪れる頻度がまた上がっていないか?

 でも、まあいい。今日のオレはそんな些細なことでイラついたりはしない。

 脱いだ自分のスニーカーを揃えるついでに、真琴センセのサンダルも揃えてやる。

 ――オレって優しい。なんて自分を褒めながら、自分の部屋に向かう。すると。

「……ゃ、だめだって――今、扉の音、したでしょっ……」

 となりの部屋――怜の部屋の扉から、真琴センセの声が聞こえる。

 靴があるから当然、家の中にいるのだろうとは思っていたけれど……この人、やたら声が通るんだよな。

 ただ、いつもの声音とは違い、どこか甘ったるい。

「扉の音?」

 会話の相手はもちろん怜だ。

「そう、椎名くん、帰って来たんじゃないかなって――ぁっ」


「自分の家なんだし、帰って来たって構わないだろ」

「そ、そうだけど……なら、こういうことはやめ――んっ、ちょっと、そこ、やぁっ……」


 内容と雰囲気で、ピンときた。二人が部屋で何をしているのか。

 まだ夕食時だっていうのに何考えてるんだアイツらは――と、いけないいけない。今日のオレは寛大だったんだ。

 気付かないふりを決め込み、自室の扉を開けて中に入り、そっと閉める。

 ……参った。こういう場面に遭遇するのは気まずい。

 ましてや、兄と兄の彼女。しかも、その彼女はガッコでオレのクラスの家庭科を担当している。

 普段の二人の顔が嫌でも脳裏にチラついて、想像が膨らんでしまう。

 断っておくけど――「誰に?」なんて声が聞こえてきそうだけど、まあ気にしないで欲しい――別に積極的に想像したいと思ってるワケじゃないからな。

 二人で暮らすには十分な部屋数だとはいえ、狭いマンションだ。オレが望んでいなくても、二人の声は扉を、壁を伝って聞こえてくる。

 いわば、無理矢理聞かされてる状態なんだ。

「真琴、もう感じてる? 下、濡れてる」

「ちっ、違うっ――ぁっ、指ぃっ……!」

 ……だから、そうやって臨場感のある台詞を洩らすなっての。

 指がどうした、と心の中で悪態をつきながら、先ほど購入した英語の問題集の存在を思い出す。

 丁度いい。今日は一日出掛けていたし、雑念を払うためにも、少し勉強しておくか。

 オレはモノが多いデスクの上を軽く片付けてから、書店の袋から件の問題集を取り出してデスクに置く。

 これは、二十日で高校レベルの文法を復習するってシロモノだ。椅子に座って、問題集を開いた。

 部屋の全ての筆記具が雑然と詰まっているペン立てから、シャープペンシルを手に取る。

 指先でそれをくるくると回しながら、一日目のページに目を通していると――

「そ、んな、奥っ……指挿れちゃっ……!」

「もうすんなり入る。真琴、嫌がってみせる割には欲しがってるじゃないか」


「…………」

 兄の部屋から聞こえる声に気を散らしている場合じゃない。集中だ、集中。

「関係代名詞と、関係副詞の使い分けか――」

 オレは雑念を振り切るように、テキストの文章を読み上げる。

 穴埋め形式の問題だ。括弧のついた部分に、whichかwhyを入れて行けばいいらしい。

 シャープペンシルの頭を二回ノックして芯をを出してから、早速一問目から回答を書きこんでいこうとした。

「ぁんっ、やぁっ……広げないでっ……」

「一本じゃ物足りないだろう? 真琴は貪欲だからな……ほら、中指も――」

「んんっ! だ、めっ、擦ったらぁっ――声、我慢できなくなるっ……」

 whyの『w』を書こうとした芯先が、ボリュームの増した真琴センセの艶めかしい声のせいで、ボキッと音を立てて折れる。

 ……このやろ。邪魔するなよ、マジで!

 ついつい壁ドンしてやろうかなんて思考が頭を過るものの――そうだった。オレは機嫌がいいんだっだ。もう既にナナめになりつつあるけれど。

 何が悲しくて、コイツらの夜の営みに耳を傾けなきゃいけないんだ。どうせなら――

 『……ふ、二人きりになれるところ……行こ?』

「!」

 そこで、脳内に『あの人』の紅潮した顔が浮かぶ。

 オレは何考えてるんだ。アレは、欲求不満なオレの煩悩が見せたマボロシだったじゃないか。

 ぁんっ、やぁっ……広げないでっ……椎名くんっ……』

 『んんっ! だ、めっ、擦ったらぁっ――声、我慢できなくなるよっ……』


 真琴センセの台詞が、『あの人』のものに変換されてリフレインする。

 その瞬間、下腹部に熱が集中するのを感じた。

 ……くそっ。静まれ、オレの身体! 今は勉強してるんだろーが。

 外部からの刺激に負けてなるものかと、オレはシャーペンを握り直して、また頭を二回ノックした。

 一問目の回答は『why』だ。括弧内の空欄に、w、h、yと、いつもよりも強い筆圧で書き記す。

「相変わらずいやらしい身体だな、真琴。もういっぱい溢れてきてる」

「だってっ……そうやって指、動かすからっ……!」

「うん? こんな風に?」

「ぁああっ――激しっ……!」


「………っ」

 『いやらしい身体だね、芽衣センセ。もういっぱい溢れてきてる』

 『だってっ……椎名くんが、そうやって指、動かすからっ……!』

 『こんな風に?』

 『ぁああっ――激しっ……!』

 
一度欲望に火がついてしまった頭と身体は、壁の向こうでの出来事を、脳内で勝手に『あの人』とオレの情事に塗り替えてしまう。

 待て待て待て待て。どうした、オレ。ホント、何考えてるんだよ。

 『あの人』とはゆっくり関係を築いていくって決めたじゃないか。その矢先に、『あの人』をそんな目で見てしまうってどういうつもりなんだ。

 自分を叱咤しながら、ジーンズの下で窮屈そうに屹立しているオレ自身を見つめる。

 ……とはいえ、オレだって思春期真っただ中の高校三年生。オトシゴロだ。

 好きな相手のことを考えると――その、身体を重ねてみたいと思うのは当たり前じゃないだろうか。

 しかもオレは、その行為の快楽を既に知ってしまっている。

 『あの人』に想いを寄せつつも、容姿に気を遣うようになったオレはそれなりにモテて、言い寄ってくる女子と付き合ったこともあった。

 何回か身体の関係を持って、すぐに別れたけど――自分でもそれはどうだよと思うけど、好奇心には勝てなかった。

 それに言い訳かもしれないけど、いざ『あの人』とそういう展開になるチャンスがあったときに、やり方がわからないと困ると思ったんだ。

 ……はい。今は、心から反省している。

 とにかく、それほど執着がない女とでもあれだけ気持ちがよかったというのに。

 もし相手が『あの人』だったら――そう考えるだけで、下肢のモノが痛いくらいに脈打つのがわかる。

「っ、やぁ、もっ……欲しっ……」

「何が欲しいのか自分で言ってごらん」

「っ……意地悪しないでっ……!」

「言わなきゃわからないだろう? 真琴のいやらしいここに、何が欲しいんだ?」


 自分の兄が言葉攻めをするタイプだと、こんな形で知りたくはなかった。

 しかも、このテンプレート的なドSっぷり――あの男らしいといえば、らしいけど。

 寧ろ意外だったのは真琴センセだ。いつもはギャンギャン煩い彼女が、こういう場面では妙にしおらしく聞こえる。

 ――知りたくない。知りたくないけど、気になる……。

 いつの間にかオレはシャープペンシルを手放して、壁の向こう側に意識を集中させていた。

「ほら、言わなきゃお預けだ」

「っ……ずるいっ……言う、言うからぁっ……」

 一瞬だけ流れる空白。オレはごくりと唾を呑んだ。

「お願いっ……私の、いやらしいここにっ……あなたのを、挿れて欲しいのっ……!」

「!!」

 『お願いっ……私の、いやらしいここにっ……椎名くんのを、挿れて欲しいのっ……!』

 羞恥に表情を歪ませ、身体を捩らせてねだる『あの人』の姿が、卑猥な台詞付きで脳裏に浮かぶ。

 ヤバい。その台詞、結構クるっ……!

「仕方ないな、真琴は――」

「ゃぁああああんっ……!」


 一際高く啼いた真琴センセ。

 その歓喜の声にゾクリとした。興奮で肌が粟立つ。

 今、真琴センセの身体に怜が挿入っていったんだ――この声は、その悦びを噛みしめたからなのだろう。

 『ゃぁああああんっ……! 椎名くんっ……!』


 『あの人』の言葉でまた脳内再生されると、堪らなく身体の中心が昂ぶってくる。

 あ、マズい――このままだと……!!
 
「っ……!」

 危機感を自覚したのと同時、ジーンズの中で張り詰めていたものが、破裂するみたいに何かを吐き出すのを感じた。

 この感覚……。

 ボクサーパンツの中が生温かく、気持ち悪い。

 嘘だろ。オレ、まさか……『あの人』の痴態を想像しただけで――

 情けなさと恥ずかしさと自己嫌悪で、頭が真っ白になる。

 オレはベルトを緩めてジッパーを下ろすと、ネイビー地にオレンジ色の星がプリントされたボクサーパンツの中を覗いてみた。

 ――案の定、大参事が起こっている。

 こっちも真っ白。って、上手いこと言ってる場合か!

「クソッ」

 最悪だ。『あの人』でヤラシイ妄想をしてしまったのも、その妄想だけでイッてしまったっていうのも。どっちも。

 オレはこれ以上、となりの部屋の会話が耳に入らないようにと、ジーンズのポケットからMP3プレイヤーを取り出して、イヤホンを耳に填める。

 よく聴く日本人ロックバンドの楽曲を再生して、男性ボーカルの声が流れ始めると、漸くホッと息を吐いた。

 いや、ホッとしてる場合じゃねーし。下着、どうにかしないと!

 風呂なんて沸いてないだろうから、ひとまずシャワーだけでも浴びて、早いところコレを洗濯しなければ。

 ジーンズのジッパーだけ上げて身なりを整えたオレは、洗濯ものが積んである床からあたふたと替えの下着を抜き取る。

 そして、となりの部屋でイチャイチャしている二人にバレないよう、忍び足でバスルームに向かった。